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『ラヴ・ストリート』【32】

  復讐の女神
 
夏目美代子は、ロールキャベツを煮込みながら、調査報告書を読んでいた。沢崎に会った後、興信所へ立ち寄った。以前から依頼していた調査の結果が出ていたのだった。
「この男で、間違いありませんか?」
 スタッフが出した写真は、随分年をとったが間違いなくコンノだった。
「はい」
「今野賢吉さん。五十九歳。自動車整備工場経営。妻、長男、長男の嫁とその子供、つまり孫三人と大所帯で暮らしています」
「そうですか」
「自宅から数分のところに工場があります。自宅も工場も、場所がすぐに分かるように、地図を最後に添付しておきました」
「ありがとうございます」
「身辺調査ということではなく、所在調査とのご依頼でしたので、以上が調査結果となります。こちらが報告書です。どうぞお受け取り下さい」
「お世話になりました」
 伝えた情報は微々たるものだった。コンノという名字、顔の特徴と当時の推定年齢、出入りしていた店の名前。しかも三十五年前だ。依頼した時は、たぶん無理だろうとほとんど諦めていた。しかし、この興信所は、いとも簡単に所在を捜し当ててしまった。見つかったと連絡を受けた時は、逆にうろたえたくらいだった。
 三十五年間、顔を忘れたことはない。憎しみはどんどん募るばかりで薄れていくことはなかった。特に啓太郎が幼い時は、どんなに楽しい一日を過ごしても、啓太郎がすーすーと寝息を立てると、とたんに寂しさと悲しみが込み上げてきて、夜通し泣き明かしたものだった。時間の経過と共に涙の数は減ったが、その分、憎しみは増幅した。人を憎んで生きるのには、相当なエネルギーを使う。精神の安定を図るのに必死だった。啓太郎の存在がなければ、とっくに理性を失っていただろう。
 夢の中で何度もコンノに復讐をした。ナイフ、ピストル、毒薬、車で突っ込んだこともあった。欲に溺れ、心が腐りきった人間を処する。夢の中の美代子は憎しみよりも、そんな正義感に支配されていた。
 それに比べ何もできない現実は想像以上に過酷だった。悪は罰を受けることもなく世の中にのさばったままだ。憎悪がいよいよ抱えきれなくなった時、末期癌の宣告を受けた。偶然とは思えなかった。
 死ぬということは想像したよりも怖くなかった。本当に怖いのは、何もできぬまま死んでいくことだった。泣き寝入りして弱虫のまま一生を終えることだった。
 全身を襲う激痛が美代子を復讐の女神に変えた。眠れぬ夜が復讐を決心させた。啓太郎はこんな母親を許さないだろう。しかし、激しい復讐の炎をもう止めることはできない。これが死を覚悟した五十女の意地だった。
 鍋の蓋を取ると、ふわっと湯気が上がった。ロールキャベツがトマトのとろりとしたスープを吸い込み、いい具合にグツグツと煮えている。あと何日、啓太郎にご飯を作ってあげられるだろう。啓太郎はマザコンでも何でもない。実は自分が子離れできない母親なのだ。啓太郎に甘えていた。居心地のいい家を維持し、手元に置いて、暴走しないように見張らせていたのかもしれない。
 もうすぐ終わる。復讐も、痛みも、我が人生も。
 美代子はまた鍋に蓋をするとガスを弱火にした。そして、興信所の調査報告書を啓太郎に見つからないように隠した。
   *
 夏目啓太郎は、疲れた顔で帰ってきた。さすがに今日一日は、いろいろなことがありすぎた。一度は魂を抜かれる思いもした。重い足取りで玄関を入ると、トマトスープの匂いが広がっていた。本当に美代子はロールキャベツを作って待っていた。脳が空腹を思い出し、とたんに腹がグーとなった。温かい食事が待っている幸せを感じた。一気に疲れが吹き飛んだ。
「ただいま」
「おかえり」
 啓太郎は美代子が思ったより元気そうなので安心した。
「うまそうな匂い」
「丁度夕飯できたところ。今、お皿によそうね」
「その前に着替え。転んじゃって、お尻がべちょべちょ」 
「相変わらす、しっかりしてそうで抜けてるのね」
 美代子がくすっと笑った。啓太郎は美代子の笑顔を見る度に、笑った分だけ癌細胞が死滅していけばいいのにと思う。そのためだったら、一日中でも道化を演じられる。
 啓太郎は着替えると四週間ぶりに美代子と食事をした。美代子はあまり食が進んでいない。やはり疲れたのだろう。退院してすぐに外出は結構ハードだ。それなのに、こうして夕飯の支度をする。しかし、美代子に残された時間を考えると、用事を先延ばしにした方がいいとか、無理して食事を作るなとは言えなかった。好きなように過ごして欲しい。
「やっぱり、おいしい。最高」
「啓太郎って、いいだんな様になれそうなのにね」
「どういう意味だよ」
「何でもないお母さんの料理を、必ずおいしいって言ってくれるもの」
「本当においしいからだよ」
「思ったことを素直に口に出して言えるって、結構、難しいことなのよ」
「素直に言えるのは、お母さんの教育がよかったからじゃない?」
「そうよねえ」
「結局、自分のことを褒めてるし」
 美代子はにっこりと笑った。
「ねえ、どうして田中さんと別れちゃったの」
「話、飛ぶなあ」
「ふられたの?」
「性格の不一致」
「嘘ね」
「どうして、そう思うんだよ」
「何となく」
「不安定な仕事だから愛想をつかされた。今だってバイトしてるだろう」
「ふーん」
「確かに頭を下げてでも結婚してもらって、お母さんに孫の顔を見せてあげればよかったよ」
 啓太郎はしまったと思った。まるで余命わずかの美代子には、孫の顔を見せることが不可能だと言っているようにもとれる。慌てて話を続けた。「そうか。これから、頭を下げればいいんだ。俺、田中さんと結婚しようかな」
「えっ?」
「お母さんも孫の顔を見たいだろう?」
「田中さんの連絡先、知ってたの?」
「実は今でも友達なんだ」
「そうなの!」
 美代子の顔が明るくなった。
「三十四歳だから、俺で妥協してくれるかもなあ」
「来年には、孫が誕生かしら!」
「ああ」
 啓太郎は突拍子もない嘘をついてしまった。
 美代子が入浴している間、啓太郎は皿を洗いながら相当に落ち込んでいた。あまりにもいい加減な作り話だった。別れて以来、田中さんとは一度も会っていない。独身なのかも分からない。分かっているのは、智樹が会ったことを考えると、札幌市内に住んでいるだろうということだけだった。まさか美代子がこの話に乗ってくるとは思わなかった。それとも息子の見え透いた嘘に、わざと乗ったふりをしてくれたのか? それでは、あまりに情けない。
 啓太郎は洗い物を終えると、脱ぎ捨ててあった泥だらけのジャケットから、没収したモデルガンを取り出した。ジャケットとズボンは浴室の洗濯機に入れた。
 風呂場から美代子の鼻歌が聞こえている。上機嫌だ。やはり嘘を信じたのか。そうだとしたら、それは母が生きる活力になるのでは? それによって余命数ヶ月が、一年、いや二年、三年と延びたとしたら。奇跡を呼べるかもしれない。
 啓太郎はモデルガンをどうしようかと考えた。そして、美代子が見つけて余計な心配をしないように、押し入れの天袋へ隠すことにした。この場所なら、ほとんど荷物の出し入れがない。啓太郎は背伸びをして天袋を開け、積んであったB4サイズくらいの白い箱を取り出した。丁度手頃な箱だった。   
 蓋を開けると興信所の書類袋が入っていた。何だろうと思い中を見ると、年配の男の写真と所在を記した報告書が入っていた。依頼主は美代子になっている。
 誰だろう。今野賢吉? 母が興信所に調べさせた男?
 そして、もう一つ、クッション材のつきの、妙に膨らんだ書類袋が下に入っていた。何気なく中を見た瞬間、啓太郎は凍りついた。
 拳銃!
 啓太郎は、もう一度、今野という男の写真を見た。そして、拳銃を見た。風呂場のドアが開く音がした。啓太郎は慌てて白い箱を天袋に戻した。

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