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『ラヴ・ストリート』【45】

  フィリア
 南城光輝は、セイジョの正門に着いた。エリたちの姿はない。辺りを見回すと、『カサブランカ』の入り口横で、エリが手招きをしていた。エリからのメールを読み、大体のいきさつは理解していた。エリと一緒にいるのは、前に家を案内してくれた小学生の佑香と、その友達の馨だ。そして、三人は馨の母親を追って来た。その母親はエリがいろいろと相談に乗ってもらった恩人らしい。
 光輝は三人に合流すると、すぐに佑香に礼を言った。
「あの時はありがとう」 
 佑香はにっこりと笑った。
「やっぱり、エリお姉ちゃんの彼氏だったんだ。かっこいい!」
「えっ? 佑香ちゃんを知ってるの?」
 エリが少し赤くなりながら光輝に聞いた。
「あの日、エリを探していた時、偶然に会って、家まで連れて行ってくれたんだ」
「そうだったの」
「僕の名前は光輝。よろしく」
 光輝は改めて佑香に挨拶した。
「光輝お兄ちゃんかあ」
 佑香が照れくさそうに呼んだ。
 エリが佑香の後方で遠慮がちに立っている馨を示した。
「で、佑香ちゃんの友達の馨くん」
「あっ!」
 光輝は馨の顔を見て思わず声が出た。「あの時の・・・」
 エリは光輝の顔をのぞき込んだ。
「馨くんのこと、まさか知ってるの?」
 佑香も馨の顔をのぞき込んだ。
 馨がぼそっと言った。
「万引きしようとした時、止めてくれた高校生」
 佑香は、光輝と馨の顔を交互に見た。
「嘘。エアガン買ってくれた人?」
「うん・・・」と馨は静かに頷いた。
 昨年、光輝は、馨が書店で万引きしようとしているのを見て、その手を咄嗟につかんだ。その本が小六法だったので、欲しくて万引きしたのではないと思った。本を棚に戻し、何があったのかを聞いた。馨は最初かたくなに口を閉ざしていたが、光輝がプラモデル屋へ連れて行き、あれこれ商品を見ているうちに「昨日、お父さんが知らない女の人と歩いているのを見た」と言った。「お母さんも一緒に見た。泣いていた」と。光輝は馨にエアガンを買ってあげた。「これでお父さんを撃ってやるといい。少しはスッキリするよ」
 あれから身長が十センチ伸びた馨が、光輝に頭を下げた。
「あの時は、ありがとうございました」
「こんな偶然、あるんだなあ」
 光輝は感慨深げに言った。その時は、光輝の方も精神的に混乱していた時期で、いつそれがどんな形で暴発するかわからない不安を抱えていた。強盗事件を起こす少し前だ。そんな中、馨に出会った。光輝が母親を亡くした時と同じくらいの年齢だった。だから、馨を放っておけなかった。それ以上に自分も寂しかった。誰かと悲しみを共有し合いたかった。優しいお兄さんを演じることで、心に鬱積した負の感情を言葉にして、体外へ放ちたかった。
 エリが力強く頷いてから微笑んだ。
「偶然じゃなくて必然。今日、ここで会うことになっていたのよ」
「そうだね」
 光輝は納得し頷いた。毎日おこる偶然は必然なのかもしれない。そう。全てが必然なのだ。「で、中に馨くんのお母さんはいるの?」
 エリは首を横に振った。
「窓際に人がいるのは分かるんだけど、光が反射して見えないの。道路からじっとのぞくわけにもいかなくて。向こうから見えちゃうでしょう? だから、光輝に店の中を見てきてもらおうかと」
「どうして僕?」
「だって、聡美さんに面が割れてないの。光輝だけだもん」
 光輝は、エリ、佑香、馨と顔を見回した。
「確かに」
「馨くんの情報だと、薄いグレーのセーターに黒のタイトスカート。パールのイヤリングをしてるって。髪はこの辺まで長くて、裾がちょっとカールした感じ」
「女優の新藤美由紀に似てます」と、佑香が口を挟んだ。
「そうかなぁ」と、馨が疑問を呈した。
「絶対、似てるよお」と、佑香は譲らない。
 光輝はやさしく微笑みうなずいた。
「分かった。いるかどうか見てくる。で、いたらどうするの?」
「うーん」
 エリは返答に困った。どうしたらいいのか、高校生に判断できるわけがなかった。
「そこまで考えてなかったんだ。まあ、いいや。とりあえず行ってくる」
 光輝は見切り発車のまま『カサブランカ』へ入った。
「いらっしゃいませ」
 マスターの保坂が笑顔で迎えた。
「あのう、人と約束しているんですが・・・」
 光輝は曖昧な言い方をしながら窓際の席を見た。刹那、啓太郎とバチッと目があった。
「えっ?」と、光輝は思わず声を漏らした。
 啓太郎は、ものすごく驚いて目を丸くしている。たぶん、同時に「えっ?」という声を漏らしただろう。向かいの席に、髪の長い女性が座っている。後ろ姿で顔は見えないが、薄いグレーのセーターを着ている。
K・・・夏目啓太郎。啓太郎・・・Kだ!
 光輝は目を疑った。何という因縁だろう。よりによって啓太郎だ。これも偶然ではない。必然なのか。
 隣に座っていた美代子が気がついて、啓太郎に聞いている。
「あら。あの男の子、知り合い?」
「うん。ちょっと話してくる」
 啓太郎は慌てて席を立つと、顔を引きつらせて近づいてきた。刹那、聡美がこちらを振り返った。パールのイヤリング。新藤美由紀似。間違いない。
 光輝は、無意識に目の前に立ちはだかっている啓太郎をよけるように、聡美をのぞき込んで聞いた。
「夏目さん、何をやっているんですか」
「何って・・・コーヒー飲みに」
 啓太郎は思わず普通に答えてから苦笑いをした。
 光輝は、啓太郎の目尻の皺に後ろめたさを読み取った。それにしても、啓太郎にはさんざん世話になった上に久しぶりの再会なのに、いきなり「何をやっているんですか」は少々唐突で礼節に欠けていた。光輝は、そんなことを考えていた。すでに驚きを通り越した冷静さがあった。
 反対に啓太郎は、光輝の追求するような聞き方に反応してか、相当動揺していた。
「どうして君がここに?」
「エリと待ち合わせです」
「ああ、そう、霧島さんと・・・」
 啓太郎は頭が真っ白になっているのか、言葉に詰まってしまった。
 光輝はバスケットで戦っているように、聡美をガードする啓太郎と反対の動きをして、様子をうかがった。聡美は啓太郎の隣に座っていた美代子と談笑している。美代子は、啓太郎の母親だと思われた。先日のエリの話を思い出した。体の調子はよさそうだ。
 啓太郎は、光輝がやたらと聡美の方を垣間見ようとするので、何とかしようと思ったらしく、こびるような声を出した。ひきつった顔がどこか滑稽でもあった。
「霧島さんとの待ち合わせの場所、変えてくれない?」
「どうしてですか?」
「いや、いろいろ、その、取り込んでて」
 啓太郎は適当にごまかす文言すら出てこない。しきりに頭に手をやった。意外と打たれ弱いように見えた。
 光輝はそんな啓太郎の様子を見て、さらに冷静になった。小声でさらりと、とどめを刺した。
「だめじゃないですか。人妻をさらったら」
「ひーっ」
 啓太郎は息を吸い込みながら情けない変な声を出した。
「ひーっとか言ってるし」
 光輝はぽつりと呟いた。
 啓太郎は光輝の耳元で囁いた。
「人妻って、何で知ってるんだよ」
「実は、エリ、もうそこに来てるんです」
「話を逸らすなよ」
「向かいに住んでいる女の子も一緒に」
「それで?」
「その子のボーイフレンドも」
「だから何」
「息子」
「えっ?」
「人妻の息子」
「ひーっ」
「どうするんですか?」 
「ひとまず外で話そう」
 啓太郎は光輝の肩に手をのせて、ドアの方へ方向転換させた。この間までの緊迫した関係が嘘のようだった。長年、冗談を言ってじゃれ合ってきた友達の手の感触だった。
 光輝は啓太郎に両手で背中を押されて店を出てきた。
 エリは、光輝と一緒に啓太郎が出てきたことが理解できずに首をひねった。
「夏目さん?」
「でした」
 光輝は独り言のように言った。
「あっ、このおじさんだ!」
 馨が指をさした。
 エリは馨の指に引きつけられた。そして、指の方向で困惑の表情をしている啓太郎を見た。
「まさか?」
「Kの正体だよ」
 光輝はエリに頷いた。
「嘘でしょう。夏目さんが・・・」
 エリは驚きを通り越して混乱しているようだった。瞬きひとつしない。
「エリお姉ちゃん、知ってるの?」
 佑香はきょろきょろしていた。
「これには深い訳があって」
 啓太郎はそう言うと、上着を着ていなかったのでぶるっと震えた。
 光輝は少年団のリーダーらしく冷静に尋問した。
「訳って何ですか?」
「うちの母親を安心させようと思って、聡美に芝居を頼んだんだよ」
「芝居?」
「知ってると思うけど、うちの母親、癌でもう長くないんだ。自分が死んだら、俺がひとりぼっちになってしまうとか心配してて。だから、結婚するって嘘をついちゃったんだ。明日、三度目の入院をするから、その前に紹介するって。母親に生きる希望を持ってもらいたくて」
「そういうことですか」
 光輝はエリの方を見て頷き合った。お互いの目と目で通じ合った。啓太郎はやはり無分別な大人ではないと。この芝居が正しいのか間違っているのかはわからない。しかし、母親に対する深い愛情が為させた苦肉の策であることは間違いない。今、中断させることはできない。光輝は馨たちの方を見た。馨と佑香はただ黙っている。
 啓太郎は馨の前へ行き深く頭を下げた。その深さに啓太郎の人間性を見ているようだった。
「ごめん。余計な心配をさせて。お芝居だから。お母さん、ちゃんと家に帰すから。おじさんとお母さんは何でもないから。だから、あと二時間だけ、お母さんを貸して欲しいんだ。こんな身勝手に巻き込んで、本当にごめん」
 光輝は馨の横に来て、肩をぽんとたたいた。無言で勇気づけたかった。小学五年生が、すぐに事情を呑み込んで快諾できるわけがない。
「どうする? 馨くん」と、光輝は耳元で呟いた。
「いいですよ」
 馨がはっきりと言った。「お母さん、楽しみにしてたみたいだったから」
「えっ?」と、啓太郎ははっと顔を上げた。
「おじさんに必要とされて、嬉しかったんだと思う」 
 光輝は馨の言葉に驚いていた。母親をひとりの人間、女性としてみている。大人顔負けの裁量にただただ脱帽した。
   * 
 夏目啓太郎は馨に納得してもらい、ひとまず安心した。先日、今野家の前で佑香と話していた小学生が、まさか聡美の息子だとは夢にも思わなかった。何としっかりとした少年だろう。昔の聡美によく似ている。人生最初で最後の大芝居が、こんな騒動を巻き起こすとは想像もしなかった。母親がよその男と会うと知った時のショックは計り知れない。芝居だったとわかるまでどれほど悩み傷ついただろう。いや、芝居にしたって気持ちのいいものではない。自分は何て非常識な男だったのだろう。自分の都合ばかり優先して考えていた。美代子の余命のことばかり考えていた。 
 啓太郎は自分を責めていた。そして、いくら馨の了承を得たからと言って芝居をつづけていいものなのか。やめるべきではないのかと葛藤していた。
「じゃあ、僕たち帰ります」
 光輝がそう言いかけた時、背後でドアベルが鳴った。啓太郎はしまったと思ったが、もう遅かった。
 美代子は、なかなか啓太郎が戻ってこないので、外に出てきたのだった。目に入ったのは、啓太郎を取り囲んでいる少年団だった。
「あら、エリさん。何て偶然」
「こ、こんにちは」
 エリは心構えができていなかったので、相当に慌てて挨拶した。
「この間は、助けてくれて、ありがとう」
「いいえ」
「また、会えるような気がしてたの」
「はい」
「今日はどうしたの?」
「あ、あの。デートの待ち合わせで。ねぇ」
 エリは、光輝の腕をつかんだ。
「そうなんです」
 光輝も調子を合わせた。
「まあ、さっきの男の子がそうだったのね」
「南城光輝です。こんにちは」
 光輝は慌てて名乗って頭を下げた。
「本当に素敵な彼氏ね」
「はいっ」と言ってエリは赤くなった。
 美代子は佑香と馨に目を向けた。
「この子たちは?」
「あっ、向かいに住んでいる小学生の今野佑香ちゃんです」
「こんにちは」と、佑香が可愛らしく挨拶をした。
 光輝は馨の頭に手をのせて、ぐっと押した。
「こっちは、その友達、五十嵐馨です」
「こんにちは」
 馨がぶっきらぼうに挨拶をした。
「光輝くんに、佑香ちゃんに、馨くん。可愛いお友達が、また増えたわ」
 美代子は、はしゃいでいた。
 啓太郎は、みんなを巻き込んでいることに心が痛んだ。どうしよう。本当のことを言うべきかもしれない。しかし、美代子の明るい顔を曇らせたくない。
 その時、聡美が美代子のコートを手に出てきた。
「寒くありませんか?」
 そして、馨を見て凍りついた。「かお・・・」
 馨は、聡美に頭を下げて「はじめまして」と挨拶した。咄嗟に他人のふりをした。
 聡美は目を丸くして驚いている。言葉が出てこない。
 エリも佑香も、聡美と初対面のふりをして「はじめまして」「こんにちは」と挨拶をした。
「こんにちは・・・」
 聡美は不安に揺れながら、ようやく挨拶を返した。息子が突然現れて、他人のふりをしたのだから、動揺するのは当たり前だ。
 啓太郎は、美代子への嘘がどんどん広がって、皆を傷つけるのではないかという不安に苛まれた。
 美代子がエリの背中に手を回した。
「エリさんと再会できて嬉しいわ。せっかくだから、みんな入って。今日は、わいわい楽しく過ごしましょう。マスターにおいしいものを作ってもらうわ。いいでしょう? 聡美さん」
「はい」
 聡美は冷静を装い笑顔で返事をした。そして、啓太郎の顔をちらりと見た。啓太郎はゆっくりと頷いた。
 何かに導かれ、皆がこの場所に集まった。偶然ではない。そこに集約した暖色の光を放つ感情。今まで出会ったことのない不思議な愛情。啓太郎の頭にアリストテレスの説いたフィリアという言葉が浮かんだ。
 まさにフィリアだ。友愛。
 美代子に希望を持たせるための秘密の結婚が、意外な方向へ動き出した。

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