東田さんのFCはなぜもっと速くならないのか?

 私は『僕が跳びはねる理由』の映画を二度目に見に行ったとき、一部の上映回だけに流された「ビデオ舞台挨拶」も見ました。映画ジャーナリストの金原由佳さんが東田さんに質問し、東田さんが文字盤を指しながら声を出して回答するという形式でした。

 しかし金原さんの「質問」は明らかに、あらかじめ用意した文章を読み上げているものであり、追加質問をして話を掘り下げるというシーンもなし。これでは東田さんもあらかじめ質問をもらっていて、用意した答えを暗記しているだけなのでは?という疑問がぬぐえません。

 ただ、それとは別に疑問を覚える光景が映像にはありました。

 それは東田さんが、一部の文章や単語は、ほとんど「タイピング」せずにスピーディに口に出しているという点です。
 たとえば「自閉症」という単語。「コミュニケーション」という単語。「世界は一つ」というフレーズ。それに「よろしくお願いします」。
 このあたりは、ほとんど文字盤の文字にも触れず、一文字くらいだけ指差してスラスラっと口に出す感じだったと思います。

 これはおそらく、講演などで頻繁に使う言葉は東田さんもよく覚えていて、すぐ口に出せる、ということではないかなと私は感じました。

 しかしそうなると一つの疑問が生じます。あらゆる文章や話し言葉によく出てくる「です」「ます」「僕は」や他の単語は、なぜスラスラ出てこないのか?という問題です。

 もし東田さんが、文章や言葉の意味を理解して文字盤を指しているのなら、ほかの単語も簡単に口に出せるように進化していきそうな気がします。

 ……というか、そもそもドキュメンタリー番組などを見ていると東田さんは「結構しゃべれる」のです。

 単に周りが「それはつい口から出てしまった不規則な言葉」として片付け、タイピングをともなう綺麗な文章ばかりを「努力の末につづれるようになった本心」として扱っているだけです。

 なぜ?

 タイピングの途中でスラスラっと出てくる「自閉症」「コミュニケーション」「世界は一つ」が本人の意思に沿った言葉だとするなら、「不意に口から出た言葉」も同じであると考えるのが普通ではないでしょうか。

 しかし実際には、周りの人が「これは意味が分からないからノイズ」「これは意味が通っているから東田さんの意思」と勝手に区別してしまっているわけです。

 なぜ?

 それは「自分に理解できないこと」の意味は深く考えず、「理解できると感じたもの」にだけ都合よく飛びついているからではないでしょうか。

 そして、そうさせている一因は「タイピング」です。

 タイピングすれば「意味のある」言葉を話せる、だからタイピング以外は無視して良い、周囲にそう考えさせてしまうわけです。

 ……続きはまた。