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天の畠に本当に実はなるのか―れいわ新選組・天畠大輔議員の参議院予算委員会の質疑を前に

 私が天畠大輔氏の存在を知ったのは、参議院選挙の翌日、7月11日の夜のことだった。政治に明るくない私は、そのとき自分の選挙区の立候補者をチェックする程度のことしかしておらず、天畠大輔氏が参院選(比例)に立候補していることすらも知らなかったのだが、天畠大輔氏の当選について触れた一つのツイートを目にしたのだ。

 ツイートからリンクされていた記事を見て私は驚いた。そこに「Facilitated Communication(FC)」の存在をかなりはっきりと感じたからだ。

 「Facilitated Communication(FC)」は、本邦では『NHK 奇跡の詩人』事件で一時有名となり、私もそれをきっかけに興味をいだくに至った。その後、いまだに「FC」が国内外を問わず肯定的に報道されているケースがあることも知り、断続的にマスコミへの問い合わせなども行ってきた。
 しかし所詮は素人による真似事、とんでもない重大事例を見逃してきたことを、私は否応なく思い知らされたのである。

 天畠大輔氏の「あかさたな話法」は、取材記事や論文、公式の動画がネット上にも数多く存在し、その実態をすぐに確認することができた。
 様々な情報を集めて考えた私は、やはり天畠大輔氏の「あかさたな話法」は「FC」と同様のものであり、彼の発言は介助者によって作られてしまっているということをほぼ確信した。

 改めて世間の評判を探れば、そこに広がっていたのは「FCお馴染みの」称賛と感動の嵐であった。
 それはもはや私にとっては見慣れた光景ではあったが、事態が『奇跡の詩人』のときと大きく異なると感じたのは、天畠大輔氏が博士号を持っているという要素だった。「さすがに博士号まで持っている人がFCと同じであるということはないだろう」――そんな楽観的な見方が散見された。
 これはむしろ『シェーン事件』や『STAP細胞』に近い状況だろう。「確かに驚くべき報告だが、あの人が名を連ねているのだから本当なのだろう」という、あの空気。

 幸いにも私は「FC」に親しみすぎていたので、どんな空気や肩書きがあろうと、これは「FC」以外の何物でもない、という結論に行きつくことができた。この、一般にはあまり出会うことのない「FC」に関する知識がなければ、議員として当選した人に対して確信をもって疑義を呈することは難しかっただろう。(なお、私の「FC」に対する基本的なスタンスはblog記事にまとめているので、興味のある方はそちらをご覧いただきたい)

 その後二ヶ月程を費やした各所への問い合わせでは、関係者の無責任さ・不用心さに呆れたり、いささか腹が立ったりすることはあったものの、この種の真偽を問う事態においては普遍的によく見られる反応だ(と考えて、どうにか自分を落ち着かせた)。
 選挙から約2か月後の9月9日を一つの「レッドライン」として考えていた私は、週明けの月曜日である11日に「研究不正の告発」を関係機関に送付した。なお、この間(かん)の8月25日に、天畠氏は厚生労働委員会で「あかさたな話法」を用いた初質問を行っている。もちろん参議院のインターネット審議中継にも動画として記録された。

 私はより安全な、なるべく人々の心が傷つかない方法での解決を図りたかったが、「あかさたな話法」が放置されることで社会に広がり得る水面下での被害の重さを考えれば、もう引き延ばせないと覚悟を固めた。
 他の「FC」と同様に「あかさたな話法」もまた、それを知った人々によって希望として使用されていく可能性は高い。まして標榜しているのは国会議員なのである。

 「通報」の文面と対象には、できる限り気を配ったと思う。私は決して誰かを責め立てたいわけではない。仮に調査が行われ、そこで問題が明らかになってから原因を非難したところで覆水は盆に返らずだ。処罰が必要ないという意味ではないが、処罰で満足するのではなく、何事と向き合うにも「フェイルセーフ」「フールプルーフ」「再発防止」の精神を持つべきだと私は思っている。
 また、たった一度のやり取りで瞬時に問題が解決したり、完全に二度と再発しなかったりといった幻想も捨て去るべきだ。社会というのは少しずつ変わっていくものであり、一発逆転などというものに期待してはいけない。後から「それ見たことか」と訳知り顔をすることが目的なのでなく、何かを変えること自体が望みであるなら、少しの失敗で諦める必要はない。(もちろん、無理をする必要もないが)

 私自身は、日本で「FC」について少しずつできることを積み重ねてきた結果、「FC」に疑義があるという事実の周知を(まったく不十分ではあるものの)多少は果たせたと、近年の新聞記事の記述などを見て感じてきた。
 それゆえ、天畠大輔氏の「あかさたな話法」についても同様に、できることをできる範囲で今後も行っていく予定である。
 ときには我が身を省みて、自分は本当に適切な行動を取っているか評価することも必須だと思う。私は何の権威も立場も持たない人間であるが、だからこそ可能なこともあるのではないかと考えている。
(終)

※ この文章は9月23日頃に書いたものを今更になって投稿したものです。