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「洗脳」

最近のわたしはと言えば、立て続きにフィクションを摂取している。
グロいのとホラーが苦手なのにミッドサマーを観たり、ずっと読みたかったけど読みきれていなかった『サラバ!(西加奈子)』『夏物語(川上未映子)』を読んだり。
(どちらもちょう良かったし、『夏物語』の話は『ふがいない僕は空を見た(窪美澄)』とかと併せてまたどこかでしたい)


疲れた時はフィクションに限る。人に会って回復することもあるけど、ひとりの時間もないと死んじゃうタイプなので、最近はひとりの世界におこもりしている。


なんというか、わたしがいつもしんどくなる原因の根底の根底にあるのは家のことで、未だにいろんなことが払拭できていないらしかった。
「この負の連鎖はわたしの代で絶対止める」
そう強く思えば思うほど、辛くなる。



『ミッドサマー』は噂に聞いていたとおりのカルト系ホラー映画で、終始画面の美しさに圧倒されていた。
わたしはグロいのもホラーも本当に苦手で(『JOKER』ですら怖そうすぎてひとりで見に行かれなかった)観るか迷っていたのだけれど、ニットデザイナーの東佳苗さん、ダンサーのrikoちゃん、画家の青柳カヲルさんなどがこぞって言及していたので観ることを決めたのだった。(わたしはすきなひとのすきなものはとにかく触れてみるタイプ)


家族を失って不安定になっている女の子ダニーが、「ホルガ村」での夏至祭を通して自分の喪失したものを取り戻していく再生の物語。ある種の洗脳モノであることも間違いない。
わたしは鈍感なタイプなのでわりかし平気だったのだけど、音とか表現に敏感なひとは観るのをオススメしません。(カップルで観るのも良くないらしい。コミュニケーションがちゃんとできてない人たちにはきついかもしれない)



▼詳しい考察はこの方々のページをご覧ください◎(ネタバレ注意)




「洗脳」というと、新興宗教に洗脳されるとか、そういう何か特別な出来事があるように感じられるのだけれど、染み付いた因習や習慣から抜け出せないことだって一種の"洗脳"だなあと思う出来事があった。



数日前、久しぶりに祖父と話をした。本当にびっくりするぐらい話が噛み合わなくて、はじめは一生懸命聞いていたわたしも、やがて音をあげてしまった。
苦しい、あまりに苦しい。生きている時代が違いすぎて、前提や文脈の共有もままならない。ひとつひとつ、単語の説明から必要になり、やがて何の話をしていたのかわからなくなってしまう。

さまざまな手術を繰り返し、もう随分と弱ってしまっていていることも相まっているのだろうと思うのだけれど、心が30年前から変わっていない。相手は、未だ昭和を生きている感覚なのだ。

友人が、「おじさんたちは今を生きてないから昔話ばっかりするんだよね〜」とよく口にするのだけれど、本当にそうだと思う。

第一メディアはTVと新聞、Amazonは使うけれどもインターネットの見方は分かっていない。(どのページは信憑性が高くてどのページは掃き溜めのようなページだということがわからないから、ネット上のコメントを全て真に受けてしまうのだった。ネットリテラシーは一朝一夕で身につくものではないのだと身につまされる思いだった)
携帯電話はらくらくフォンで、スマフォは使えない。怖いからといって、クレジットも使わない。


祖父の家は、家父長制を煮詰めたようなところで、お祭りの際やお正月には親戚中の女性という女性がこぞって台所に立ち、集まってきた男性陣のお世話をする習慣がある。わたしは今まで子どもだったから、それを黙って見ていれば良かったけれど、「わたしは同じようにそこに立つ人間ではない」とずっと感じていた。(高校時代の口癖が「扶養されたくない!!!」だったし、家父長制への疑問や憤りはもう随分昔からあったっぽい。あんなに高額な学費を払ってもらっておいて何言ってるんだって感じでもあるけど)


生きてきた時代が違うから、話が噛み合わないということは往往にしてあると思う。
わたしには、現代を生きている自負もあるし、若いし、きっとそれに付随する驕りもあるだろう。「わたしが正しい」って思っているうちは歩み寄れないことも、もうわかっている。
それは相手も同じで、自分の価値観、考え方を崩さないあるいは新しい考え方を取り入れようとする姿勢がないと、お互いがお互いに向き合うことはできないのではないか。

今回の話し合いを通して、わたしは「わたしが正しい」と思うことについての傲慢さを痛感した。友人と喧嘩することもほとんどないのだけれど、一度だけ深い溝ができた友人とは「あなたもわたしも正しい」ということになり、それぞれの正しさを貫いた結果、決別することになった。

なんというか、意見が合わないなら合わないでいいじゃん、それぞれでやろ?と思うタイプなので、わたしはその結論を何ら不満に思うことはなかったのだけれど、きっと友人は自分に合わせて欲しかったんだろうなと思う。(それがわかっていて尚、折れないところがわたしの頑固さの表れでもあるよね)

今回は、決別したいわけではなくて、手を取り合って一緒に解決するために話をしたのだった。けれどやはり言葉は届かなくて、(というかわたしの話ができるような状態じゃなくて)まだまだ長期戦になりそうだなあと思う。


こういうのは洗脳とは言わないのかもしれない。けれど、凝り固まった考えを改められないほどに自分の生きてきた時代に固執している状態は、「洗脳されている」状態にさほど遠くない。

これが「ホルガ村」みたいな小さな村で起こっていることではなく、限界集落でも何でもない、都に近いところで生活している人の考え方だというところに絶望する。日本で生活している多くの人が、染み付いた考えから抜け出せないのだろうと思うとゾッとする。

これからわたしは、少しずつ歩み寄らなければならない。長い時間がかかりそうだなあ、頑張ります。

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