A4サイズの母親たち
ブドウの果実のような、異様に大きく濃く暗い眼が、いっせいにこちらを向いた。
***
一面に貼り出された、最高傑作の数々。
「おかあさん ありがとう」というポップ体のメッセージとともに、
名前も知らなければ会ったことすらない母親たちの肖像画が、ずらりと並ぶ。
私が生まれ育った田舎のまちでは、母の日のイベントとして、園児たちが描いた似顔絵が、スーパーやコンビニに貼り出されるのが恒例となっていた。
普段は簡素なかざりつけしかされていない壁面がたちまちピンク色に染まり、
見慣れているはずの店内の風景は突如として、仮面だらけの美術館へと、変貌をとげる。
うす気味悪い。
気持ち悪い。
おぞましい。
初めてその光景をきっちりと認識したときに私の中にほとばしった感情を、
あえて端的に説明するとしたら、おおよそこういった言葉になるだろうか。
自らすすんで画材を手にとる機会がなくなって数年がたったことで、
子どもの似顔絵というものを、どこか他人事のようにしかとらえられなくなった。
いつからか、それをただまっすぐに楽しむことができなくなってしまったのだ。
無意識に目をそむけたくなってしまうような、強烈な不快感。
それは断じて、それらの絵のつたなさによるものではない。
私は最近になってようやく、そのことに気づくことができた。
ぐりぐりと塗りつぶされたひとみ、
真っ赤に火照ったまんまるの頬、
唇のうしろからはみ出た、チャームポイントの八重歯。
特に注意して観察せずとも、すぐにわかる。
園児たちの絵は、人間の顔の特徴を実によくとらえている。
むろん、それぞれの出来ばえのよしあしに差はあるのかもしれない。
けれど少なくとも、
髪の長さ、目や鼻や口や耳の大まかな位置、口角の上がり方など、
基本的な要素に大きな間違いはない。
彼らの絵は、きわめて整合性がとれているといえる。
驚くほどに写実的である。
写実的であるからこそ、不気味なのだ。
ふつう絵を鑑賞するとき、
それがいかにリアルさを追求した作風であったとしても、
私たちがその絵によって現実と非現実を区別できなくなる、なんてことは滅多にない。
ほとんどの画家たちは、おそらく、自分の作品が「現実とは異なるもの」「架空のもの」として生み出され、受容されるということをわかっている。
リアルを完全に再現することをどこかであきらめ、どこかで折り合いをつける。
そのおかげで、鑑賞する側の私たちも、目の前のものを単なるイラストとしてとらえ、安心してその世界観にひたることができる。
しかし子どもの場合は、そう簡単にはいかない。
彼らは、自らが描いた絵のポテンシャルを信じて疑わない。
練習を重ねて、写真や鏡の中の像と全く同じような、真実のひとコマを描き出すことを目指していく。
もっとじょうずに。
もっとリアルに。
もっと。
すっかりすり減ったクレヨンをあどけない手のひらに包みこみ、
わずかにあまった指をぎこちなくくねらせ、
思うがままに、力まかせに、細い腕をすべらせ……こすりつけながら、
画用紙のなかに、彼らは母親の魂を注ぎ入れていく。
はじめはいびつな丸の集合体だったものに、色がつく。
目や鼻や口がかたちづくられる。
茶色の長髪が、くるりと上を向いたまつ毛が、植えつけられ、
肌にはメイクが施される。
無謀に思えたはずのハードルが次々と、小さな巨匠たちによっていとも容易く飛びこえられる。
生まれてせいぜい数年の、まだまだ未熟な存在であるはずの彼らは、
大人たちが想定するよりもずっと正確に、緻密に、世界を切り取っていく。
彼らが作り上げた見事というしかない写実性に、私たちは知らず知らずのうちに打ちひしがれ、魅了され、のみ込まれる。
もっとも写実的であるものを目の前にして、
本来そうであるべき写真や鏡に映る像のことを想起した時、
強烈な違和感に頭を締め付けられながら、私たちは思い出す。
底の見えない井戸のなかを覗き見る不安を。
けたたましく点滅する危険信号の緊迫感を。
ごつごつとした岩山にのみこまれる恐怖を。
……。
とん、と肩に軽い感触があった。
緑色の作業服に身を包んだ40代くらいの男性が、どこか訝しげな顔をしながら通り過ぎていく。
「じゃまなところに突っ立ってるな、ガキ」とでも言いたかったのだろう。
片道15分も自転車をこいでコンビニまで来たというのに、うっかり本来の目的を忘れてしまうところだった。
いちご大福2つをレジカウンターに置き、マジックテープの財布をポケットから取り出す。
「来年からはちゃんとしたケーキ屋さんに行くことにしよう」
私はそう心に決めたのだった。