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ポルカ・オ・ドルカ?

「ピーちゃん、いっつもこんな感じで、うちの手に乗ってくるねんなぁ」

夜も更け、たわいもない世間話で一緒に盛り上がっていた友人の声のトーンが、電話越しにもはっきりと感じられるほど、がらりと変化した。

小さな乱入者へとかけられたその言葉は、驚きからとっさに発されたものなのか、「タイミング考えてよ〜」というちょっとした苦情なのか、それともあまりある愛着のメタファーなのか。
そのときの彼女の胸の内にどのような感情が渦巻いていたのかは定かではない。

だがそれでも、ひとつだけ確実に言えることがあった。

彼女にとってそのインコは、紛れもなく大切な家族の一員であり、慈しむべき、リスペクトをもって接するべき対象である、ということだ。

何を隠そう、私はこれまでの人生で、1度もペットを飼ったことがない。それどころか、積極的に飼ってみたいと願ったことすらなかった。

どうしてもプラスの側面ばかりに目が行きがちだが、小さな命を預かることには当然に、大きな責任がついてまわる。
特別なトモダチを得られるというステータスや、触れ合って癒されたいという願望ばかりに目がくらんで、か弱い動物を人間のエゴで振り回してしまってはいけない。
誰に教えられるともなく、当時の私はそう認識していた。

それでも、純粋無垢な小学生時代の私は、まだまだ年相応に幼く、わがままであった。
まわりの「持つ者」たちのことを、たしかにうらやましく感じていた。

愛くるしさ、パートナーとしての頼もしさ、
必然的に伴ってくる責任や、いずれ先立たれてしまうことへの苦悩。
そういった、飼い主だけが感じることのできる独特の情緒と無縁のままでいることを、もったいないと思わないわけではなかったのだ。

……そういえば。

ペットを飼う人たちへの漠然とした羨望がぐるぐるとまわりまわって、
あまりに突拍子のない新たな視点へと着地する。

いたではないか。

多様で、奇抜で、刺激的で、そして何より愛すべき「パートナー」が。

小学生の頃の私のとなりには、いつだって心強い仲間たちがいてくれた。
うまくいったときには一緒に喜んでくれ、傷ついたときには心配そうな表情をしながら駆けよってきてくれた。
酸いも甘いも噛み分けながら、お互いのことを信頼しあって、私たちは一緒に大きくなっていった。

10数キロの相棒を苦もなく肩にのぼらせ、
的に向かって横回転の石ころを投げつけ、
学校のプールでアクアジェットの練習をし、
ヒョロヒョロの木の棒を片手に、そこらの草むらにいあいぎりをおみまいした。

いつからだろう。
ずっと一緒にいたはずの彼らのことが、すっかり見えなくなってしまったのは。

抗うすべもなく歳を重ねていき、
私たちは、あまりにも多くのことを知りすぎてしまった。
サンタクロースのおじさんは、世界中の子どものところをまわるにはあまりにも忙しすぎるということを。
赤ちゃんは、2羽のコウノトリが汗だくになってまぐわうことで産まれるということを。
私たちが確かに目にしていたはずの仲間たちは、液晶の向こう側に映し出された「キャラクター」なるものにすぎないということを。

牛乳を腹に流し込み、
砂ぼこり舞うグラウンドを走りまわり、
訳もわからないまま好きでもない漢字をノートに繰り返し書いて、
私たちは、強くて賢くてカッコいい「大人」になることを目指した。
道半ばであるにしろ、その目標は成し遂げられた。
代償として、かけがえのない存在を2次元の世界に押し込んでしまったことには気づきすらしない。

ひととポケモンが当たり前のように共生し、いろどり豊かな生涯を過ごしていく。
誰もがあのころ見た景色は、
果たして本当に、単なる幻想に過ぎないのだろうか?

ケンタロスの背中にしがみつきながら道という道を駆けまわり、
オオスバメとともにだだっ広い青空を飛んでまわり、
木をよじ登ってエイパムを追いかけ、
ビーダルにまたがりながらスリリングな川下りに興じて、
遊び疲れてぐったりとしたからだを、ヌオーのむちむちとしたお腹へとあずけ、
コロトックが奏でる子守唄に心を洗われながら、ゆっくりと眠りにつく。

パソコンの画面とにらみ合いながら、
孤独で、幼稚で、無駄にロマンチストな22歳児は、今日もそんな世界線のことを妄想せずにはいられない。


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