ありがたいはなし
サカグチくん。
私に、相談したいことがある、って聞きました。
どうしたんですか。
自分で言うのもなんですけど、先生、そういうの得意なんですよ。
まぁ、だてに15年も、教師やってませんからね。
心配しなくても、頭ごなしに否定したり、叱ったりすることはありません。
ぜひ気軽に、思っていることを、そのまま伝えてほしいです。
……。
なるほど。
わざわざ先生に相談、というくらいですから、
万引きを強要させられているとか、
女の子を妊娠させてしまったとか、
そういうもっと深刻な話かと思って、ちょっと身構えてました。
誰かに迷惑をかけているとかではないみたいですね。
とりあえず安心しました。
言いたいことは、よくわかりますよ。
自分に自信がなくなってしまうとか、
お父さんやお母さんや、まわりの人たちとうまくいかないとか、
どうしようもなく自分を責めたくなってしまうとか。
生きていれば、誰もが経験することです。
でもね、
「死にたい」なんて、
軽々しく言ってしまうのは、感心しないですね。
サカグチくんは、「ことだま」って言葉、知ってますか?
言葉の力というのはすごいものです。
人を喜ばせたり、励ましたり、場を盛り上げたり。
大きな大きな、プラスのエネルギーを秘めているんです。
でも逆に、
使い方を間違えてしまうと、それは、とても恐ろしい凶器にもなりうるんですよ。
お父さんお母さん、きょうだい、友達、クラスメイト、それに先生。
周りには、サカグチくんのことを大事に思ってくれている人たちが、たくさんいるんです。
「死にたい」と口にするということは、
自分を傷つけてしまうだけではなくて、
そんな人たちの想いも、同時に殺してしまうということなんですよ。
サカグチくんにはそのことを、忘れてほしくはないなぁ。
考えてもみてください。
「死にたい」という言葉を発することで、
そのブルーな気持ちは、少しでも晴れるんでしょうか?
まわりの人たちはそれを聞いて、いい思いをするでしょうか?
サカグチくんはよくできる子だから、
これくらいは、ちゃんとわかってくれますよね。
もちろん、生きていれば、つらいことなんてたくさんあります。
勉強しているのにテストの点数が伸びない。
部活を頑張っているのに全然うまくならない。
片思いを寄せていた女の子に彼氏ができた。
ささいなきっかけから、友達と喧嘩してしまった。
先生だって、学生のころはいろんなことに悩まされました。
でも、
すっかりおじさんになってから振り返ってみると、
なんてちっぽけなことで悩んでいたんだろう、
取りとめのないことで、なんであんなにくよくよしていたんだろう、
そんなふうに思えます。
自分は、狭い狭い視野でしか世界をとらえられていなかったんだな、ってね。
先生ね、前にも言ったと思うんですけど、
4歳になるむすめがいるんです。
もう、ほんとにかわいくてかわいくて。
将来、絶対自分の子供が欲しいなって、
パパになってみたいなって思いつづけて、生きてきたんですけど、
ようやく、その夢が叶ったんです。
仕事でどれだけくたくたになっても、
玄関の方までドタドタ走る音が聞こえてくる。
それだけで、全回復ってもんですよ。
かわいい子どものためなら、命をなげうってでも。
って、心の底から、そう思えるんです。
無償の愛、ってやつですね。
サカグチくんのお父さんお母さんだって、例外じゃありませんよ。
サカグチくんもこれから先、
就職して、結婚して、子どもをつくって、家庭を築きますよね。
そうしたら、先生の言いたいことが、きっとわかるようになるはずです。
今のサカグチくんが、何ひとつ不自由なく過ごせているのは、
お父さんやお母さんが、必死に働いてくれているおかげなんですよ。
子供の立場では、そのありがたみを、つい忘れてしまいがちだと思います。
でも実は、これって、決して当たり前のことじゃないんです。
親の愛は無償のものだって、よく言いますよね。
でもそれだけじゃないんじゃないかなって、先生は思うんです。
感謝する気持ちだけは、いつも忘れずに、持っておかないといけないんですよ。
もしかしたらまだ、今は、
お父さんやお母さんに対して、前向きなイメージを持てないのかもしれない。
でも、それはある意味、仕方のないことかもしれませんね。
先生も、サカグチくんくらいの年齢の時はそうでしたから。
何につけても粘着してくるし、干渉してくるし、しばりつけてくるし。
そんな親のことを、
邪魔くさい、うっとうしいなんて思うことは、
1度や2度ではないかな、とは思います。
何かにつけてとやかく言ってくることも、
それほど悪いことをしていないのに大げさに説教されちゃうことも、
今はただ理不尽なだけに感じられて、腹が立ちますよね。
でもね、
別に、怒りたくて怒ってるわけじゃない。
お父さんやお母さんの行動は、全部全部、
あなたのことを想っているがゆえの行動なんですよ。
これから先、5年10年と時間が経っていけば、
「あんなこともあったよなぁ」なんて、昔のことをなつかしみながら、
一緒にお酒を酌み交わして笑いあうことが、きっとできるようになりますよ。
人間、みないろんな悩みを抱えて生きています。
悩みごとのない人間なんて、どこにもいません。
多かれ少なかれ、みんながそれぞれに暗い過去を背負って生きているんです。
だからこそ、
昔のことにはさっさと踏ん切りをつけて、今を生きなければいけないんです。
昔の嫌だったことを思い出してウジウジしていても、何にもなりません。
ずるずる過去を引きずっていても、前には進めないんです。
とにかく自分のことを磨いて磨いて、
いいことだけ、思い出せるようになればいいんです。
とにかく今は、
自分にできることを積み重ねていくべきだと思いますよ。
しっかりご飯を食べて、
あついお風呂につかって、
ふかふかのベッドでぐっすり眠る。
当たり前のことだと思うかもしれません。
でもね、
規則正しい生活をするだけでも、人間って、いい方向に変われるんですよ。
サカグチくんはできる子ですから、そんなに難しくはないと思います。
まずは簡単なところから、少しずつ始めてみましょうか。
……あぁ、もうこんな時間ですか。
こうやって誰かに打ちあけると、スッキリしましたよね。
いいことだと思います。
申し訳ないんだけど、このあと、まだ会議があるんですよね。
教師ってのはほんと忙しくて、困っちゃいますね。
さようなら。
もう外はだいぶ暗いですから、気をつけてくださいね。