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The Other Side

[ 1 ]

玄関の扉が、ほんの少し空いている。

たったひとつの失態によって、
すがすがしくさわやかな1日のはじまりの時間は、いっぺんに台無しになった。

5時42分。

カラスともキジバトとも知れない鳥たちの、どこか遠慮がちな声が夜明けを告げる。
かすかな草の香りをふりまきながら、少しひんやりとした空気が流れこんでくる。
まだそれほど人を乗せていない電車が、カタンカタンと鼻歌を鳴らしながら、軽快なスキップで通りすぎていく。

背伸びをしてゆっくり立ち上がり、目をこすりながらカーテンを開けると、
まだ弱々しい朝のひかりが、部屋全体にうっすらと色をつけていった。

ひとりで味わう久しぶりの早朝の空気は、
思っていたよりもずっとにぎやかで、活気に満ち満ちている。
その活気につられるかのように、ほんの少し気分が高まった。

こんな朝は、せっかくだからホットケーキでも焼くことにしよう。
そう思い立ち、薄力粉とグラニュー糖を取り出しにキッチンへと向かう。

そのときだった。
室内に生じていた明らかな違和感に、はじめて気がついたのは。

部屋が明るすぎる。

さっき開いたカーテンの逆方向から、入ってくるはずのない光がさしている。
電気のついていない台所に目をやると、
薄いグレーのキッチンマットの微妙な色彩が、吊ってあったスポンジや乾いた茶碗のシルエットが、はっきりと見えた。

わざわざ確認しにいくまでもなかった。

寝起きであるにもかかわらず、
その先の光景がいったいどうなっているのか、その先で何が起こっているのかを、
私は驚くほど冷静に、的確に察知することができていた。

同時に、
アラームよりも早く目覚められたことにも、鳥のさえずりや草のにおいがやけに鮮烈に感じられたことにも、なんとなく納得がいった。

どうしてこんなこと……?

玄関へと歩きながら、
まだ覚醒しきっていない脳をフル回転させて、昨夜のあるまじき失態に至るまでの道すじを、ひとつずつたどっていく。

昨夜は……

福岡から来た友達と、久しぶりに会うことになった。
バンドでベースをつとめる彼が、今度ライブでこっちに来るんだと言うので、せっかくなら一緒に飲もうよ、ということになり、
その流れで、バンドメンバーの中に部外者ひとりが混ざるという、なんとも不思議な組み合わせでの打ち上げが始まった。
今日のパフォーマンスはどこが良かったとか、次の遠征では初めて新潟に行くんだとか、ギターは今から始めても全然遅くないよとか、
自分とは全然違う世界に生きる人たちとの会話はとても新鮮で、刺激的だった。
そして何より、好きな音楽のコアな話題で大いに盛り上がり、目の前のグラスが、かつてないペースで空けられていく。
気づけば、まともな会話すらおぼつかないほどベロベロになっていた。
ほとんど寝過ごしそうになりながら、からくも最寄り駅のホームで降りて、
ふわふわした視界を引きずりながら、倒れこむように帰還して、
そのまま……。

酔いが回るあまり、すぐ後ろのドアのことすら気に留められないまま、一夜を過ごしてしまったらしい。

酒豪ぞろいの集まりでペースを乱され、繰り返し吐いたあの夜も、
女々しくもかつての恋人のことを思いながら、涙と自分の中身を一緒くたに便器に流したあの夜も、
「ハイボールは体の消毒だから!」とハメを外して、宣言通りに胃腸を空っぽにしたあの夜も、
さすがに、部屋の扉をちゃんと閉めないまま眠りにつくことなんてなかったのに。

不意に、小学生のころにクラスメイトから聞いた、「すき間男」という怪談のことを思い出した。

家の中でかくれんぼをすることになった女の子たち。
冷蔵庫や窓のすき間からこちらを伺う黒い影のようなものの存在に気づき、一抹の気味悪さを感じつつも、鬼をやることになった少女は家の中に隠れる友達を探しにかかる。
しかし、「〇〇ちゃん  みいつけた」と書かれたメモとともに、友達の気配がつぎつぎと消えていって……。

10年以上も前に一度だけ聞いた話なのでそれほどはっきりとは覚えていないが、まぁだいたいこんな内容だったような気がする。

小学4年生の私にとってはあまりに刺激が強くて、
真っ暗な部屋で仰向けになって見る、クローゼットやカーテンのわずかなすき間が、まるで異世界の出入り口のように奇妙に感じられた。

いやいや。

くだらない妄想を打ち消すように、ひとりで大げさにかぶりを振った。
見えないもののせいにしてあれこれ考えるなんて、論理的じゃない。

やらかした事実は変えられないのだから、無駄な思考に陥るのはやめて、
次に同じミスをしないように気をつけよう。

半開きになっていたクローゼットを音がするまで閉め、机の下に落ちているティッシュのかたまりを拾い上げ、ふとんを丁寧にたたみ直した頃には、
すでに「今日は何限からだったかな」という思考に頭が切り替わっていた。

[ 2 ]

「あれ、カバンのチャック開きっぱなしじゃない?」

帰り道、同じゼミの後輩と大学の坂を下っていたとき、
彼が背負っているリュックの横のファスナーが、だらしなく開いているのが気にかかった。

「あ、そうっすね。ありがとうございます」
なんだそんなことか、といった感じで、彼はすました顔をしている。
「…そうっすね?」
「わざと開けっぱなしにしてるんですよ。いっつも開けてるのにずっと言われてなかったんで、気づいててスルーしてるのかなと思って…」
「いやいや。普通指摘するでしょ」
「はは、そうすね」

後輩が愛想笑いを返すと、
あけっぱなしのカバンの謎は、秋の肌寒い空の中へと消えていった。

後輩とわかれてから、あれやこれやと考えをめぐらせるうちに、家に着いた。
ゆっくりと扉を閉め、ついでに窮屈そうに寝転がっていた靴たちを、ひとつずつ丁寧に靴箱へとしまう。

晩ごはんに鶏もも肉を焼き、シャワーを浴びて、
お気に入りの配信者の動画をひととおりチェックし終えると、
突然、何かに憑かれたかのように、全身がずっしりと重くなった。

おかしいな、今日はそんなに忙しい日でもなかったのに。

少し黄ばみが目立ってきたマットレスに、全身で腰掛ける。
下着しか身につけていないはずの軽いからだが、いつもより沈み込んでいるように思えた。

ぐにゃりといびつに折れまがったかけ布団を、ひざの高さまでかぶせた。

やっべ、照り焼きの皿、まだ洗ってない。
バイトのトレーナーからのLINE、はやく返さないと。
今日の4限のレポート、できれば今日中に終わらせたいんだけど。

……。

理性の必死の抵抗もむなしく、
うつ伏せのからだは、とめどなく深い深い闇の底へとしずんでいった。

[ 3 ]

0時56分。

氷水のような深夜の空気を浴びせられ、無防備にさらされた上半身が、ぶるりと震えた。

あまりに冷たい空気が布団の中を突き抜けていくのを感じたとき、
目覚まし時計をわしづかみにした私の脳内を、またしても不吉な予感が襲った。

まさか。

イモムシのように体を器用にくねらせ、玄関へと視線を向けようとする。

飲み屋街の方角から、同じ大学生の集団らしき人たちの傍若無人な笑い声が、とれたての声量で室内に響きわたった。

昨日の今日。
1度ならず、2度までもとは……。

気付かぬ間に、相当疲れをためてしまっているようだ。
1回、ちゃんとお医者さんに診てもらった方がいいかもしれないな。

はぁ、と大きなため息をひとつついて、
私はゆっくりと重い腰をあげた。



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