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いつまで生きるのか

誰もが一度は考えることがあると思う。

私もかつて考えたことがあった。
感性が瑞々しかった頃に。
しかし、最近は日々の忙しさに
考える暇を無くしていた。

あるいは考えなくともよかった。

「いつまで生きられるんだろう」
この言葉が
子どもから発せられた時
私はとても驚いて
感動すらした。

運動会のあと、
40度近い発熱の連絡を受け
私がこどもを学校まで迎えに行った。

思ったより重症感はないにせよ
脱水が酷くて
クリニックで注射をすることにした。

まっすぐ家に帰れるとふんでいた
こどもは
突然
多弁になり
いかに自分が元気であるか語り出した。

もう12歳の男の子のくせに
「痛くない?どのくらい痛い?」

何度も尋ねてきた。

私は笑いながら
彼のことを“ビビラー”と呼んだ。

補液のあと脱水状態は改善したが
熱は続いたので次の日も
学校を休ませることにした。
仕事場から電話をしてみたら
体温は
40度を越えたらしい。

「今日は注射しない?」
彼は心配しているようだった。

水分を経口摂取できるのでもうその必要はなかった。

私も泊まりの仕事で
顔を合わせられないのが心配であったのは確かだ。

当直室から
電話をかけてみると
こどもなりに色々考えているということだった。
体調が落ちて心細くなったのかもしれない。

でもいったい何を考えてるの?
点滴のこと?
学校を休むこと?

ママからの報告によれば、
いま私が尋ねたようなそんなことではなかった。

それは今回のエントリの表題に関していて
「自分はあとどのくらい生きるのか」ということだった。

この一年、私の母親も亡くなったし、すぐ後に近しい知り合いも見送ってきた。

その度に葬式に参加した。

人の亡くなった顔を眺めたのは初めてだったはずだ。

そういう経験と自分の発熱が重なってこどもなりに考えたのだ。

私も同じくらいの頃に死ぬのが怖かった。
最近は自分が死ぬのは仕方ないとわかっているとはいえ
それでも、もし、すぐにこどもと別れなければいけないのだとしたらとても残念だ。

仕事の帰りに
久しぶりに紀伊國屋に寄って
「君たちはどう生きるか」を買った。

彼には少し難しいかもしれない。
でも置いておけばいつか突然読み出すかもしれない。

今回
「自分はあとどのくらい生きられるのか」
と突然質問してきたように。

知らないうちに
彼は成長している。

命が続いていくようで
嬉しい。

古い人間から瑞々しい人間へ。

私はいつまでいきるのか。
それがいつまでであっても
いま彼とともに暮らしていることは
幸せだ。

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