信仰
家族にゴリゴリの信者がいるので
私も数年前に洗礼を受けた。
窮屈なことも多いけれど
自分でどうにもならないことは
任せてしまって
知らんぷりできるのは良い。
今日も教会にきている。
数ヶ月後には証(あかし)というのをやることになっている。
証は私の解釈では
自分の中の信仰について紹介することなんだろう。
実際には
どんなに信心深いかではなくて
どんなに罪深いかを話すことになるとおもう。
「お前は神の子キリストなのか」
「あなたが言った通りです」
こんなことをどうして信じるようになったのか。
私も少し前はまったく理解できなかった。
目の前にイエスがいれば
同期の精神科医に連絡して
お薬を盛ってもらうところだ。
自分で信じたわけではなく
精霊により
信じる機会をもらったと考えるそうである。
2000年以上にわたって
あらゆる疑問や質問に対する
それなりの解釈や回答は用意されている。
信じない人間にとっては
しっくりこない
ご都合主義の言葉かもしれない。
しかし信じていなかった頃でさえ私たちは
その言葉の一部を引用して
自分を鼓舞する。
自分にとっての
ご都合主義からでも良いでしょうか。
The kingdom of heaven is like a mustard seed, which a man took and planted in his field. Though it is the smallest of all seeds, yet when it grows, it is the largest of garden plants and becomes a tree, so that the birds come and perch in it's branches.
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