マザコン
走る。
気が進まないけど
気温が下がったので
仕方なく走る。
ほんの少し1kmだけ。
日没直後のトワイライト
赤紫から紫に変化していく空を見上げて
一番早く。
すぐに息が切れだす。
AirPodsからはベッドミドラーが流れる。
走るにふさわしくないバラード、ローズ。
空に思わず「お母さん」と叫びそうになる。
ほんと
信じられない。
今までは会わなかっただけで
会いたいとも思わなかったけれど
会おうと思えばいつでも会えた。
いまは
会えないんだよ。
そんなことがあるんだよ。
胸が苦しいのは
スピードを出しすぎて
狭心症を起こしかけてるんじゃないかしら。
それても別の理由かな。
吹き出した汗を
落ち着かせるためにもう一周歩いた。
港で一緒にアイスを食べたこと
風でハンカチが飛んでいったこと
機関車のある公園で桜吹雪のなか
花びらをお菓子の箱に集めたこと
ススキを取りにいって月の中にウサギを探したこと
子守唄の声、歌詞
「おやすみ、まあちゃんのおメメ、
いろんなもの見て疲れたね」
雨の中紙袋から落ちたオレンジを拾ったこと
茹でたとうもろこしの毛をむしったこと
お財布からお金を取って打たれたこと
書き方コンクールの厳しい練習
親父と喧嘩して泣いている姿
開業して初めての入院患者の見舞いへの慇懃な案内
私の反抗期の乱暴な言葉に驚いた顔
その他にもたくさん
撫でられたことも打たれたことも
思い出す。思い出す。
それで名前を呼んでみたけれど
届いた気はしなかった。
もっと褒めてもらいたかった。
褒めてもらわなければ
この車も
この時計も
持っていても意味がない。
褒めてもらうために
喜んでもらうために
失敗もしたし挑戦もした。
もうすこし孝行したかった。
でもそれは物質的な孝行で
そんなものは望まれていなかった。
最後に握った小枝のような指が
血が通っていたときと通わなくなった時で
冷たさが違った。
あれはドライアイスの
冷たさだろうけれど
もっと温めてあげたかった。
帰ろう。
このままだと帰れなくなる。
十分に走った。
いろんなものを見て疲れたね。
Apple Watchは
6分1秒で1㎞を走ったことを教えてくれた。
これでも今までで一番早いペースだ。
あと1秒頑張れば5分台に突入する。
その1秒は短くて長い、
全く違う世界と私のいる世界とを隔てる
越えられない壁だった。