もう一つの漠然とした生命の時間
僕の家から駅に向かう途中に、団地がある。その団地の一角が花壇になっていて、季節毎に様々な花が咲き誇っている。先日散歩をしていると、丁度その花壇の花たちに、じょうろ代わりのやかんで水をあげているお婆さんを見つけた。前々からその花壇を管理している人のことが少し気になっていて、頭の中であれこれ想像を膨らませてたので、遂に正解を知れて嬉しかった。自分の中で想像していたものの答えを不意に知ったとき、ファンタジーが崩壊した気がして、ガッカリすることも少なくないけど、今回は良い意味で期待を裏切られた。「やかんを持ったお婆ちゃんが花に水やり」それだけで十分僕の想像していたものを凌駕する平和な画だったことが伝わると思う。(まあ想像してたのもお婆ちゃんだったんだけどね。でもやかんってのがいいじゃない。)
お花綺麗ですね、いつも通るたびに見てますよ。と伝えると、感謝の言葉と共にこんなことを教えてくれた。「花や自然は私にとって確かな時間の流れを感じさせてくれるの。時計の時間とはもっと別の大きな時間を」と。お婆ちゃんの言いたかったことを全て理解できたのかはわからないけど、昔僕が読んだ本に書いてあったことと似ていた。
自分が日本で暮らしている今、この瞬間、アラスカでオーロラが舞っている。それは当たり前でいて、何と深遠なことなのだろう。私たちは二つの時間を持って生きている。カレンダーや時計の針に刻まれる慌ただしい日常と、もう一つは漠然とした生命の時間である。すべてのものに、平等に同じ時が流れていること......その不思議さが、私たちにもう一つの時間を気づかせ、日々の暮らしにはるかな視点を与えてくれるような気がする。
『長い旅の途上』星野 道夫
漠然とした生命としての時間。恐ろしい程に壮大なその時間を、僕たちは、その巨大さ故に、日常で意識することは少ない。しかしそれは確かに存在し、時に突然僕たちの目の前に現れる。例えばそれは夜寝る前に宇宙や死について考えを巡らせる時。自分の存在が塵のように感じる程の絶景に出会った時。そんな時、僕は堪らなく大きな恐怖心を覚える。だがそれと共に、自分の中に燃え滾る生命の躍動を感じることができる。確かに宇宙の時間と比べたら僕たちの人生は本当に一瞬で、その一瞬の人生で自分が生み出すことができるものは無に等しい。でもそれは全然悲観するようなことなんかじゃない。むしろ、僕は、それでも何かを残すために、変えるために自分の不確かであてにならない儚い人生を精一杯燃やし尽くすんだって、強く再確認する。もしかしたら、この感情って人が人として知性を持って生きていく上で、実はとても大切なことなのかもしれない。きっと、お婆ちゃんにとってそれを思い出させて、取り戻すきっかけをくれるのが花なんだろうなって。そう思った。
これは僕が描いた絵です。instagramに描いた絵や撮った写真など、色々載せているので良かったら見てくれると嬉しいです💃🕺死ぬまでにオーロラ見たいなあ。むしろ見ないと死ねない。それではまた!Peace✌︎
2020/5/8