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PCMの旅①:悲しくてやりきれない

「悲しくてやりきれない」はザ・フォーク・クルセダースが1968年に発表した楽曲。以後、たくさんのカバーが発表されたようだ。今回紹介するのはコトリンゴと井筒香奈江によるもの。

wikiにある「悲しくてやりきれない」の作詞をしたサトウハチローのポートレート

☆コトリンゴ

片渕須直が監督した『この世界の片隅に』(2016)は2016年から2019年にかけて1133日間連続上映というミニシアター系の記録を作ったアニメーションであった。当時、そういう記録的なことになっていることは知っていたが、レンタルDVDを待つことにした。しばらくしてレンタルDVDを観て、すぐにBlu-rayを購入した。全編を何度も見返したが、特に素晴らしいのはタイトルバックで、コトリンゴの歌う「悲しくてやりきれない」が流れながらタイトルが出る。2010年9月に発表された『picnic album 1』に収録されたヴァージョンを監督の片淵須直が映画の予告に使おうとしたが、権利の問題もあって、別ヴァージョンを録音し、その際には映画に合わせたアレンジになったとのだという。『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)で既に片淵須直はコトリンゴを主題歌に起用していたのであった。

片渕須直『この世界の片隅に』(2016)は近年の日本の戦争映画の傑作。題材はアニメーションらしからぬものだが、カメラがアニメーションにおける自由を享受しているショットの映画である。

『この世界の片隅に』の冒頭は昭和8年12月と指定されており、旧太田川なのだろうか、遣いで舟に乗った幼年のスズが空を見ている。華やいだ雰囲気の呉服屋のビルヂングの傍らに佇み、繁華街にいながら既に世界の片隅に疎外されているようなスズをロングショットで捉えると、スズがビルの外壁に沿って空を仰ぎ見るときには、カメラは主観ショットになり、ビルの屋根を超えて、青空にまで視線は伸びて、ふわっと後退していく。まるで、舟の上で空を見上げて、気持ちよく眼差しが進行方向と逆に自動運動で流れていくような調子で、時間が逆行しているようでもある。しかし、恐らくはこのビルの高さを超えて浮き上がる主観ショットは、タンポポの綿毛の視線なのであろう。スズと綿毛の同一化をさりげない主観ショット一発で進行させてふわっと舞い上がると、のんびりと空を浮遊してきたカメラがふわふわと森の際に着地して、タイトルバックとなる。

この時のコトリンゴの歌う「悲しくてやりきれない」は、スクリーンとの一体感が凄まじいのである。上に書いたようにスクリーンは後方に自動運動する空の主観ショットである。この不定の空にコトリンゴの声が茫洋と消えていく。そんな死んでしまいそうなほど静かな歌い方で、映画がこのオープニングの後で内包する痛みを十全に予告するのだ。無色透明のエモーション。映画を観れば観るほど、その度に目頭が熱くなるコトリンゴの歌は、引っかかるところがなく、サ行の摩擦からも解放され、ふわふわ漂い、淡い空になる。この無色透明さが無限の痛みを受けとめるキャパシティになっている。ボーカルの音圧は低いと思う。ホームシアターであるとプロジェクターの空冷ファンの音というのはなかなかのものである。映画の劇伴が鳴ると聞こえなくなるが、無音の箇所では聞こえるのだから、微細な音はマスクされてしまう。それが、コトリンゴのボーカルの音圧が小さく感じる原因なのかもしれない。しかし、このタイトルバックでは小さくあるべきなのだと思う。エンディングでは音圧は普通だった記憶。


☆井筒香奈江

ダイレクトカッティング時に同録した音源を含む『Another Answer』(2021)をダウンロードサイトで物色していた際に、「悲しくてやりきれない」の入った2011年のアルバムがあることを知っていたが、その時はDSD256を優先してしまった。どうしても聴きたくなって、改めてアルバムを購入してみた。e-onkyoがたぶん本日終了したのだと思うが、24bitはセーフ。qobuz(コバズ)に生まれ変わってダウンロードできるのか分からない。このアルバムは32bitと24bitの2種類のリマスターが後発で販売されていたようなのだ。既に32bitのほうはe-onkyoから消えてしまっていたので、今回の試聴は192kHz/24bit版である。

『時のまにまに』(2011)の素敵なジャケット。井筒の公式HPには、「言葉に出来ない悲しみ、我慢することしか許されない痛み、伝えたくても伝えられない愛情。そんな深い感情を抱く人のそばに、そっと寄り添うような作品を作りたい」というコンセプトであるとされている。そして、そのコンセプトはこの作品以後にも通底するものなのだ、とある。

『時のまにまに』の発表は2011年の7月だそう。オーディオ関係者がいたく評価したとかで、井筒香奈江のこの後のキャリアの紹介には録音エンジニアやオーディオ業界の人たちが出てくる。関係ない話だが、この記事を読む人の中には著名なオーディオ業界人が関わったHYPSという一度限りに終わったプロジェクトをご存知の方もいるだろうが、公式サイトのディスコグラフィーにはそのタイトルはないのだが、ご本人は今もライブをやり音源も発表しているようだ。そのHYPSはマルチチャンネルサラウンドがまだ盛り上がりを持続させているなかでの全方位に音像定位する5chのSACDが売りであったのだと思う。さて、井筒香奈江は2chである。何が特別だったのだろうか、今更であるが、自宅のリスニングルームから想いを馳せてみるとしよう。

roonの画面。ダイナミックレンジは潰されていない?

192kHz/24bitの『時のまにまに』の「悲しくてやりきれない」はボーカルがセンター少し右寄りに位置し、寄り添うようにボーカルの左下にギターが定位する。ギターの音像の一番高いところは井筒香奈江のあごの下くらいであろうか。座って弾いているように聴こえる。残響も反響もほとんど聴こえない。ボーカルの口元とギター本体をそれぞれ切り取って、ズームしながら繋いだ感じであるので、中間や周辺に音は存在しない暗闇である。エンジニアの川瀬真司によれば、「おもちゃの鉄琴」を自然に聴こえるように配置したらしいが、カサンドラ・ウィルソンとジャッキー・テラソンの『テネシー・ワルツ』(1997)くらいに音の粒を小さくしたほうが良かったのではないかと思う。ただ汚らしくはなっていないので、これはこれで良いと思う。慎ましく素朴な輝きであり、好感を持てる音色だ。

井筒香奈江の歌う「悲しくてやりきれない」の素晴らしさに感じ入っていると、左にいたギターが井筒香奈江の右からも入ってくる。あれ?となる。実は、ギタリストが2人いたのかと、思わず調べる始末になったのだ。左下のギターはステレオ的定位をしている。右のボーカルもステレオ的定位をしている。途中で入ってくる右のギターはステレオ空間左のギターと区別がつかないほど同じ音色であるのだが、ステレオ空間にはいない。つまり音像定位はしておらず、右スピーカーのバッフルの上10~20cmに張り付いている。この音の配置に「悲しくてやりきれない」から気がそれてしまった。同曲を既に7、8回は聴いたのだが、同じ箇所で気が逸れる。

『時のまにまに』の全曲で、江森孝之のギターの音も井筒香奈江の声も良いと思う。PCM的なからっと明るくクリアな音はやっぱりDSDのほうが、、、と思うは思うのであるが、音質は十分に良い。しかし、音像定位の実在感が非常に高いような仕方でステレオ空間内にボーカルとギターを配置していたのが、突然に、そのステレオ空間の外において、江森孝之の腕が4本になってアコギもダブルネックではなく2本になったかのように、ギターの分身が異次元から歌い始めるのである。ここで、ふと、目が覚めてしまうのである、あー、井筒香奈江が歌いかけてくれて、江森孝之がアコースティックギターで寄り添う、極私的音楽空間はエンジニアリングによって生み出されたものだったんだと。

ポップスでは昔から、ある単一のミュージシャンを分割して、コーラスに配置したりするということは盛んに行われてきたわけだが、ここではアコースティックギターを分割して、同時に、別の次元に配置している、一方はステレオ空間左下に、もう一方は左chゼロで右chのモノラルのような調子で。深い感情を抱く人のそばに、、、というコンセプトが目指したであろう音場と定位が、ステレオシステムによるものでなければならないかどうかは分からない。しかし、ステレオシステムで始めておいて、別のシステム=定位のない音像によるギターソロの提示というのが、しかも全く同じ音色でというのが、コンセプトを壊乱していないか。1曲目の「マイ・ラグジュアリー・ナイト」の終わりしな、ステレオ空間を維持してきて、「悲しくてやりきれない」が聴きたくて性急な気持ちであった私は、少し飽きを感じた。しかし、1曲目の提示は純粋で違和感などない。良い提示の仕方なのだと思う。しかし、2曲目「悲しくてやりきれない」の盛り上がりで、カウンターが入る。しっかりと作り上げたステレオ空間内をそのまま維持して井筒香奈江がハミングした方が良かったのじゃないか。。。それであれば、音楽に閉じ込められた特権的な状態において、アルバムが開示した誰のものか分からない悲しみに井筒香奈江と一緒に同一化できたのではないだろうか。

極私的音楽空間を井筒香奈江は与えてくれようと企図したのだと思う。しかし、『時のまにまに』の「悲しくてやりきれない」は、ふと、音楽空間への同一化から目が醒める残酷な瞬間を内蔵しているように私は思うのだ。昔、とあるオーディオ評論家と話した際に、世間では「定位」なんてほとんど聞かない言葉で、定位が分からず、気にもしない人ばかりだ、と吐き捨てるように言われたのだった。いやはや、とても驚いたものだった。定位の扱いが世間ではそんなものなのかと。その評論家も私が定位の話を始めたことに軽く驚いているようであったが。。。

オーディオというものと、アーティストたちは分断されていると思う。繋ぎ目にいるのがエンジニア。エンジニアもオーディオから分断されていないだろうか。アーティストが偉いわけではない。エンジニアが偉いとも思わない。作品が重要だ。作品は楽譜ではない。詞でもない。LPやファイルでもない。アーティストとエンジニアとオーディオマニアの結束のはずである。もし、優れたエンジニアがそうであるのと同じように、オーディオマニアというのがアーティスト自身の個性をありえないほど純粋に追及する人たちのことである、とするならば。