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「フローとストック」廣瀬純--『仮面/ペルソナ』論

※本稿は、2018年8月5日(日)、YEBISU GARDEN CINEMAにて『仮面/ペルソナ』上映後に行われたトークイベントで話した内容を加筆・修正したものです。

この作品は、準備段階では『シネマトグラフ』と題されていたようなのですが、それが、最終的に『ペルソナ』に変更されました。「シネマトグラフ」という語は、プロジェクションやスクリーニングというように、「装置」としての側面から映画を問題にするときによく用いられるものです。作品タイトルのこの変更から言えるのは、ベルイマンにおいて、「シネマトグラフ」という問題と、「ペルソナ」すなわち「仮面」という問題とが無関係ではないということです。                     
実際、作品の冒頭とラストとにおいて、これら2つの問題が結びつけられています。顔は投影が続く限りでしか存在しない。顔は投影の産物、映像でしかなく、その意味で、顔はつねに仮面、ペルソナであるといったことが、作品の最初と最後で示されているわけです。
顔が投影の産物でしかないと言うときの「投影」には、他者による投影の場合も、自己による投影の場合もあるでしょう。似たような考え方は、ベルイマンの同時代人たち、たとえば、フランツ・ファノンなどにも見出せます。ファノンはマルティニーク出身の精神科医ですが、アルジェリア民族解放闘争などで闘った政治活動家で、ポストコロニアル理論の先駆者とも看做されている人です。ファノンは、1952年発表の彼の最初の著作『黒い皮膚、白い仮面』において、誰かが白人であるのは、その人に他人あるいはその人自身が白人のイメージを投影する限りにおいてのことだといった議論を展開しています。だから「白い仮面」だというわけです。
顔は仮面でしかないということを、「シネマトグラフ」の時代、すなわち、近代あるいは20世紀に特有の文明の病いとして提示すること。こうした発想がベルイマンにも、彼とほぼ同世代のファノンにも見られるわけです。
重要なのは、しかし、作品内で実際に起こっていることが、いま話したようなこと、作品の冒頭とラストとにおいて「説明」されていることとはまるで異なるように思われるという点です。『ペルソナ』は、いまみなさんがご覧になった通り、確かに顔を中心とするかたちで構成された作品ですが、しかし、作品内での顔は仮面ではない、作品内では「仮面」という問題が問われてすらいない、いわば『ペルソナ』というタイトルそれ自体が作品に投影される「仮面」でしかない、そのように思われるわけです。

『ペルソナ』に限らず、ベルイマン映画一般について指摘できる問題がここにあります。作品タイトルや全体的構成(『ペルソナ』の場合であれば、プロジェクターの始動と停止とのあいだに作品を挟み込むといった構成)、登場人物たちの台詞といったものが、画面上で実際に起きていることこととはまったく関係のない「偽の問題」を我々に突き付けてくるという問題です。『ペルソナ』に関して言えば、たとえば、「アルマ」(Alma)という名前も、同じようなオーダーにある「ひっかけ問題」だと思います。almaはラテン語animaに由来し、スペイン語やポルトガル語では「魂」を意味しますが、そこから我々観客は、ややもすると、アルマは魂であり、エリーザベットは仮面であり、仮面の下には魂が……といった話に巻き込まれそうになる。しかし、そんなことは画面上にフィジカルに起きていることとは何の関係もない。

ベルイマン作品を観るときには、メタ=フィジカルな偽の問題に引きずり込まれずに、画面上で真にフィジカルに起きていることを直視するようにしなければならない。これは、ぼくが言い出したことではなく、ジョナス・メカスがすでに言っていたことです。メカスは、ニューヨークのインディペンデント映画の旗手として知られる映画監督ですが、彼は、50年代末から70年代初頭にかけての「ヴィレッジ・ヴォイス」紙での連載を集めた『映画日記』という著作のなかで「ベルイマンの作品はすべて逆回転で上映すべきだ」と書いています。逆回転で上映することで、ベルイマンが作品中で我々に出してくるメタフィジカルな「なぞなぞ」(たとえば、なぜエリーザベットは無言なのか、言葉を失ったふりをしているのか、あるいは本当に失語状態にあるとすればその原因はいったい何なのかといった「なぞなぞ」)のすべてをふるい落とし、画面上のフィジカルな映像展開を直接的に捉えるときにこそ、ベルイマン作品の素晴らしさ、美しさが初めて見えてくるということです。

それでは、『ペルソナ』において、フィジカルな水準ではいったい何が起きているのか。フィジカルな水準でも「シネマトグラフ」が問題になっていると言えるように思います。顔の「シネマトグラフ」的な把握が問題になっている。ただし、顔は映像である、顔は投影の産物である、顔は仮面であるといったことではありません。そうではなく、アルマの顔も、エリーザベットの顔もスクリーンとして示される、様々なものが投じられるスクリーンとして示されているのです。
彼女たちの顔には何が投じられるのか。第一に、光が投じられてます。光は画面外に光源をもつ場合もありますし、ベッドの脇のランプやラジオに内蔵された電球のように、画面内に光源が見出される場合もあります。
次いで指摘できるのは、文字通りの「映像」、写真やテレビの映像です。興味深いのは、写真やテレビの映像が登場人物たちの顔に投じられるときの光との連動です。僧侶の焼身自殺を見せるテレビの映像はそれ自体が光でもあり、その「映像=光」がエリーザベットの顔に投じられています(このテレビ映像はおそらく『続・世界残酷物語』からの抜粋です。1963年、当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領の仏教迫害政策に抗議して僧侶ティック・クアン・ドックがサイゴンのアメリカ大使館前で焼身自殺しましたが、現場で実際に撮影されたのは写真だけで、『ペルソナ』で使用されているフッテージはこれを動画で再現したものです)。また、エリーザベットが、ワルシャワのゲットーでのユダヤ人強制連行の写真を見るというシーンもありましたが、そこでも、写真映像と光との興味深い連動が見られます。エリーザベットは、このとき、ベッド脇のライトの光量を強めるわけですが、これは、物語上は、写真をよく見るために明るくしたという理解になるのでしょうが、しかし、より即物的には、写真それ自体が光を放ち、それがエリーザベットの顔に投じられるといったことが起きていると言えるでしょう。

写真やテレビ画像の顔への以上のような投射は、顔がスクリーンとしてあることを、よりわかり易く教えてくれる「レッスン」のようなものとしてあると言えるかもしれません。その「実践」としてあるのは、顔への言葉の投射です。アルマやエリーザベットの顔に投射される言葉には、大別すれば、話されるものと書かれたものとの2種類があると言えます。
話される言葉の顔への投射については、たんに、アルマの話す言葉がエリーザベットの顔に投射されると言うだけでは不十分です。話すアルマの顔はプロジェクターで、無言でその言葉のフローを受けるエリーザベットの顔だけがスクリーンとしてあるわけではない。『ペルソナ』では、アルマの顔も、エリーザベットの顔も、どちらも、言葉が投じられるスクリーンとしてあるのです。
作品終盤、母性について語るアルマの長い台詞がそっくりそのまま2度繰り返されるシーケンスがあります。1度目はエリーザベットの顔を正面から捉えた映像が示され、2度目はアルマの顔を正面から捉えた映像が示されます。1度目は、我々観客は、エリーザベットの顔に投じられたアルマの言葉のその反射を見るわけですが、2度目においても同じで、我々は、言葉を発するプロジェクターとしての顔を直視するわけではありません。アルマの言葉がアルマの顔に投じられ、我々はその反射に曝されるのです。どちらの顔もスクリーンであるということを、我々観客は誰しも、この過程のなかではっきりと体験するわけですが、観客をバカだと思っている節のあるベルマンは、これに続けて、画面の左右にアルマの顔の半分とエリーザベットの顔の半分とを合成した映像を付し、我々に「説明」してくれてもいます。

映画監督には、しかしながら、顔をプロジェクターとして構想している人々もいます。その一番有名な例はカール・ドライヤー監督です。ドライヤーには『裁かるるジャンヌ』というサイレント作品がありますが、この作品は、ジャンヌ・ダルクに扮するルネ・ファルコネッティという女優の顔のクロースアップを中心にして構成されたものです。ファルコネッティの顔はプロジェクターであり、何かを発する顔、何かを投じる顔、表現する顔です。『裁かるるジャンヌ』の仏語原題はLa Passion de Jeanne d'Arcすなわち「ジャンヌ・ダルクのパッション」というものですが、ファルコネッティの顔は、「パッション」を発出するプロジェクターとしてあります。
これをよく理解していたのがジャン=リュック・ゴダールです。ゴダールの『女と男のいる舗道』には、アンナ・カリーナ演じるヒロインが『裁かるるジャンヌ』を映画館で観るというシーンがあります。カリーナの顔もクロースアップで示されるのですが、前方からの光で照らし出されたカリーナの頬は涙でぬれている。何が起きているのでしょうか。ファルコネッティの顔から発せられた「パッション」がカリーナの顔に投射されているのです。
ゴダールは、したがって、ここで2つのことを同時に示していると言えます。ひとつは、ドライヤーにおいて顔はプロジェクターとしてあるということ。もうひとつは、ゴダール自身においては逆に、顔はプロジェクターではなく、スクリーンとしてあるということ。顔をスクリーンとして考えるという点において、ゴダールとベルイマンとは同じグループに属する映画監督なのです。
そして実際、ゴダールがベルイマンを高く評価していたのは、まさにこの点においてのことでした。1958年にフランス・パリのシネマテーク・フランセーズでベルイマンのレトロスペクティヴが行われた際、若きゴダールは「カイエ・デュ・シネマ」誌に「BERGMANORAMA」(ベルイマン映像)と題された文を発表し、次のように書いています。

 「映画作家は2つのタイプに大別される。頭を垂れて道を歩く者たちと、頭を上げて道を歩く者たちだ。前者は、周囲で起こる物事を見るために、何度も不意に頭を起こしては、頭を左に向けたり右に向けたりしなければならず、その繰り返しを通じて、視覚に与えられる場を把握する。彼らは“見る”(voir)のだ。他方、後者は何も見ないが、関心の惹かれる特定の点に注意を集中させ、“眼差す”(regarder)。〔…〕ベルイマンは第一のグループ、自由な映画に属する。反対に、たとえばヴィスコンティは、第二のグループ、厳密な映画に属する。〔…〕私にとって〔ヴィスコンティの〕『白夜』は尊敬の対象だが、〔ベルイマンの〕『夏の遊び』は愛の対象である」。

ゴダールは、ここで、「眼差すこと」と「見ること」とを対比していますが、これは映画監督についてだけの問題ではなく、作品内の登場人物についての問題としても理解できるものです。登場人物の顔には、眼差す顔と見る顔との2つがある。眼差す顔は、関心を表現する顔であり、注意を発する顔、プロジェクターとしての顔です。これに対して、見る顔は、光景が投じられる顔、光景が映し出される顔、光景を受け、それを反射させる顔、スクリーンとしての顔です。
ゴダールにとって、そして、ベルイマンにとって、顔はなぜスクリーンでなければならないのか。このことを考えるのに役立つたいへん示唆的な一節を、再び、ゴダールの発言から紹介したいと思います。『アワー・ミュージック』公開時のインタヴューでゴダールは次のように言っています。

 「一般に、物事は正面から捉えるときにリアルに把握できると考えられています。エマニュエル・レヴィナスのような哲学者ですら、他人を正面から見たら、その人のことを殺せなくなると言っています。しかし、人の言っていることを理解するためには、その人の背後に回って、その人を正面から見ないようにしつつ、その人の話を聞いている第三者を通じて理解するようにしなければならないのです」。

この一節については、実のところ、ぼくはこれまで様々な機会に色々と論じてきているのですが、今日は、顔に的を絞って話したいと思います。ここで問題になっているのは、言葉を理解するには顔をどのようなものとして撮ればよいのかということです。レヴィナスの撮るショットに映っている顔は、言葉を放つ顔、表現する顔、すなわち、プロジェクターとしての顔です。これに対して、ゴダールが提案するショットには、言葉を放つ顔は映っていません。プロジェクターはゴダールのカメラに背を向けている。ゴダールのカメラが正面から捉える顔は、言葉が投じられる顔、投じられた言葉を反射させる顔、すなわち、スクリーンとしての顔です。レヴィナスに対するゴダールの批判は、ひとことで言えば、顔をプロジェクターとして撮る限り、言葉は何も聞こえてこない、何も理解できないというものです。一般的に言っても、フローが流れるためには、2つの異なる機械が必要です。フローを発する機械(プロジェクター)だけでなく、発せられたフローを受ける機械(スクリーン)もなければ、フローはけっして流れません。フローの流れは、発せられたフローに、そのフローを受ける機械が接続されることで初めて生産されるのです。 

『ペルソナ』において顔に投じられる言葉は、話される言葉だけではありません。書かれた言葉すなわち文字もまた、顔に投じられます。時間的にも作品のちょうど真ん中におかれ、物語上の転機にもなっているのは、精神科医に宛てたエリーザベットの手紙をアルマが読んでしまうというシーンです。このシーンでは、アルマの顔は、手紙の文面と切り返しの関係におかれ、手紙の文面が投射されるスクリーンになっている。手紙の文面とアルマの顔とのあいだの切り返しは、『女と男のいる舗道』でのファルコネッティの顔とアンナ・カリーナの顔とのあいだの切り返しに比し得るものです。
このシーンはいかなる意味で作品の転機をなしているのか。アルマは手紙を読むことでひとつの発見をする。何を発見するのか。ひとことで言えば、蓄積が起きているはずのなかったところで実際には蓄積が進んでいたという事実を突然、突き付けられるのです。一般的に言っても、スクリーンとは、フローだけを知るはずのものであり、ストックを知り得ないはずのものです。スクリーン上に投射されたすべての映像が、スクリーンの背後に蓄積される、ストックされる、記憶されるというのは、こう言ってよければ、スクリーンを擬人化し、スクリーンという装置の特性を捉え損なった馬鹿げた考えです。いずれにせよ、エリーザベットの手紙がアルマに伝えるのは、スクリーンとしてのエリーザベットの顔はいままで様々なフローを受け、反射させてきたが、それらのフローのすべてがそのスクリーンの裏側に実はストックされてきたという事実です。話される言葉と書かれた文字との関係を、オリジナルとコピーのそれといったように考えれば、エリーザベットの顔はスクリーンであると同時にコピー機でもあり、オリジナルについてはまるまる反射させつつ、同時に、そのコピーをとり、これをストックしてきたとも言えるかもしれません。純然たるスクリーンだと思っていたエリーザベットの顔が、実は、同時にコピー機でもあったという事実を、ここでアルマは唐突に知らされるというわけです。
このシーンを転機に、『ペルソナ』にはコピー、ストックの物語が導入されてしまう。アルマ自身の顔も、たんなるスクリーンであることをやめ、コピー機になってしまう。アルマの顔は、エリーザベットの手紙をコピーし、ストックする。作品後半の騒がしい展開、アルマとエリーザベットとのあいだのドラマ、ニーチェであれば「人間的、あまりに人間的な」と形容したに違いないドラマのすべては、作品中にストックという新たな要素がこうして導入され、純粋なフロー展開が手放されたことに直接由来しています。

注意すべきは、ストックという現象が、むしろ、プロジェクターに関わるものだという点です。プロジェクターは、自分のなかにストックされたものを、フローとして吐き出す装置です。映画のプロジェクターに装填されるフィルムのリールはストックであり、プロジェクターの発する光のフローが、話される言葉に比し得るとすれば、プロジェクター内にセットされるフィルムは、書かれた文字に比し得るもの、いわば「アーカイヴズ」です。この意味で、『ペルソナ』後半部では、プロジェクターとしての顔が導入されることになると言ってもいいかもしれない。
実際、じゃりの上にガラスの破片をおいてエリーザベットがそれを踏むのを待っているアルマの顔は、スクリーンではもはや微塵もなく、まさしくプロジェクターです。光景を受ける顔、見る顔ではもはやなく、眼差す顔、特定の関心や注意を表現する顔です。ガラス破片とアルマの顔とのあいだの切り返しは、たとえば、ワルシャワ・ゲットーの写真とエリーザベットの顔とのあいだの切り返しと同じものではもはやまったくありません。
作品後半でも、スクリーンとしての顔が失われるわけではありませんが、それでもなお、作品前半ではいっさい問題になっていなかったプロジェクターとしての顔が導入されています。スクリーンとしての顔だけにとどまれなかったベルイマンの創造性の限界、純然たるフローの平面にとどまれなかったベルイマンの映画監督しての弱さといったことを、ここで語りたい気持ちにもなりますが、しかし、それは我慢して、敢えて事態を肯定的に捉えてみるとすれば、ベルイマンは、顔の二つの体制を対峙させている、スクリーン体制をプロジェクター体制に対峙させ、前者の強度を測定しようとしていると言ってみることもできるかもしれません。

アルマの顔の写ったフィルムが燃え上がります。『ペルソナ』の1年後に撮られた『出発』という作品でスコリモフスキが引用することになるものです。この発火は、一般的には、アルマの怒りの発火として理解され、サイゴンの僧侶の焼身自殺と関連付けられて論じられたりするようなものなのでしょうが、しかし、より即物的に捉えるならば、ストックを焼き尽くそうとする試み、ストックを焼き尽くすことでもう一度、フローだけの世界、トヨタ流に言えばゼロ・ストックの世界を回復しようとする試みだと言えるでしょう。しかし、我々が直ちに知ることになるのは、火を放ってみても、やはり、一度始まったストック形成の過程はけっして止められない、ストックをご破算にすることはできない、ゼロ・ストックの状態には戻れないという事実です。
ストック解消の試みは、フィルム発火に続く長いトラヴェリング・ショット、浜辺を進むアルマとエリーザベットとを側面からロングのトラヴェリングで追う長回しショットでもなされています。「脱領土化の運動」といった言葉を口にしてみたくなるあの移動、大地の運動と連動しすべてを砂漠に戻すかのようなカメラのあの圧倒的運動性、強力な箒のようなものとしてあるトラヴェリングを以てしても、しかし、ストックを一掃することはできない、ストックされたものの忘却を導くことはできない、フローだけの無記憶的世界を回復することはできない。そうした不可能性が、浜辺のトラヴェリングでは問題になっているように思います。

ストックの形成とともに登場人物の「内面」が作品内に回帰してしまう。「内面」のこの回帰によって、グザヴィエ・ドランを想起させもするような凡庸な心理ドラマが回帰してしまう。「内面」を表現する顔、映画の創造力に依らずともすでに誰もが知っているような顔の様態が回帰してしまう。「人間」が回帰してしまう。ベルイマン映画を前にしたジョナス・メカスを苛立たせた最たるものは、「人間」のこうした回帰でしょう。火を放っても、カメラで箒のように掃いても、「人間」を消すことができないのであれば、フィルムを逆回転で映写するほかもはや何ひとつ方法はない、メカスはおそらくそう考えたのです。最後までぼくの話にお付き合い下さり、ありがとうございました。

『仮面/ペルソナ』Persona
1966年/スウェーデン/モノクロ/スタンダード/82分
(c) 1966 AB Svensk Filmindustri
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
出演:リヴ・ウルマン(エリーザベット)、ビビ・アンデション(アルマ) ほか

廣瀬純(ひろせ・じゅん)
1971年東京生まれ。1999年、パリ第三大学映画視聴覚研究科DEA課程修了(フランス政府給費留学生)。2004年4月、龍谷大学経営学部講師に就任、現在は同大学同学部教授。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」(勁草書房)及び仏・映画批評誌「VERTIGO」元編集委員。著書に、『シネマの大義』(2017/フィルムアート社)、『資本の専制、奴隷の叛逆 「南欧」先鋭思想家8人に訊く ヨーロッパ情勢徹底分析』(2016/航思社)、『暴力階級とは何か 情勢下の政治哲学2011-2015』(2015/航思社)、『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』(2013/青土社)、『絶望論 革命的になることについて』(2013/月曜社)、『蜂起とともに愛がはじまる 思想/政治のための32章』(2012/河出書房新社)、『シネキャピタル』(2009/洛北出版)、『闘争の最小回路 南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン』(2006/人文書院)、『美味しい料理の哲学』(2005、河出書房新社)。


「ベルイマン生誕100年映画祭」
http://www.zaziefilms.com/bergman100/

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