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星の王子さまがみた世界

第2回 大人の価値観に抗して

谷田利文(思想史研究者)

大人と子どもの価値観

 前回は、『星の王子さま』の献辞を中心に、この作品が、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツとの戦いを背景に執筆されていたことを確認しました。
 『星の王子さま』の特徴として、しばしば指摘される点が、大人と子どもとの対立です。しかし、そこで示されるのは、子ども時代への逃避ではなく、子ども時代の価値観を失い、画一的な価値観に染まってしまった大人たちに対する批判的な目ではないかと考えます。それは、前回見たようにナチス・ドイツや、ナチスの台頭を許した大人たちに対して向けられただけでなく、時代や地域を超えて、今日の読者にも向けられているといえるでしょう。

250 を超える『星の王子さま』の翻訳の一部。大阪の国立民族学博物館にて展示。
By Yanajin33 - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29461275

大人は数字が好き

 『星の王子さま』の中の印象的な場面では、「大人は数字が好きだからね」と、大人たちが数字でしか、物事の価値を測れないことが語られます。大人に新しい友達を紹介する時、大人は、その子の声や、好きな遊び、チョウを集めているかなどとは聞かない。そうではなくて、何歳か、体重は何キロか、父親の年収はいくらかを聞いて、それでその子を理解したつもりになってしまう。またバラ色のレンガでできたきれいな家を見ても、10万フランの家を見たと言わないと、わかってもらえないという場面です。

Les grandes personnes aiment les chiffres.

画一化した価値観

 物の値段、年収、テストの点、偏差値、フォロワー数、チャンネルの登録者数など、物や人の価値を測る際に、数字は確かにわかりやすい指標を与えてくれます。しかし、大人は数字ばかりに左右されてしまい、その他の価値観を持てなくなっているというのです。このような指摘は、現代の日本に住む私たちにも当てはまると思いますが、ここでは、そのような画一化した価値観の典型として、サン=テグジュペリが対峙したナチス・ドイツの優生政策について取り上げたいと思います。

ナチス・ドイツの優生政策

 ドイツでは、1933年1月にヒトラー政権が発足した後、同年7月、ドイツ初の断種法である遺伝病子孫予防法が、議会の承諾なしに制定されました。これは、遺伝病とみなされた精神病者や知的障害者、重度のアルコール依存症者などに対して、本人が望まなくとも不妊手術を施すことを可能にした法律でした。このような断種政策は、1939年頃から安楽死政策へと方針転換され、精神障害者や身体障害者に対する強制的な安楽死政策であるT4作戦により、約7万人が処刑施設に送られ、シャワー室に偽装されたガス室で殺害されました。そして、この作戦で実践された大量殺害の方法は、ユダヤ人に対するホロコーストでも使用されることになりました。これらの政策は、「国家の役に立たない人間」を根絶しようという、非常に画一的な価値観に基づいています。

組閣後初の会合を行うヒトラーと閣僚
Bundesarchiv, Bild 183-H28422 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5434087による

日本の優生政策

 ナチス・ドイツの優生政策は、ヨーロッパで起こった悲劇であり日本とは関係ない、特に民主主義国家である戦後日本とは縁遠い話だと思われるかもしれません。しかし、戦後日本でも、1996年まで優生保護法という法律があり、遺伝的疾患を持っている方々に対して、本人に知らせない強制的な断種・不妊手術が行われていました。遺伝的疾患を持つ方だけではなく、非行少年とされ、更生施設にいる間に、本人に知らされず断種がなされたという証言もあります。

優生保護法の下での強制不妊

 日本では、1940年にナチスの遺伝病子孫予防法をモデルに「遺伝性」と決められた病者・障害者への断種を認める国民優性法が制定されました。そして戦後、1948年に優生保護法が制定され、1996年に母体保護法に改定されるまでに、少なくとも2万4991人の方々に対して不妊手術が行われていました。

ハンセン病患者に対する隔離政策

 また、優生保護法では、ハンセン病患者への断種・不妊手術も合法化されました。ハンセン病患者は、1907年の「癩予防ニ関スル件」によって隔離政策が開始され、1940年代に特効薬が開発されたにもかかわらず、1996年の「らい予防法」の廃止まで隔離政策が続けられました。

狭隘な価値観に抗して

 戦後日本では、全ての国民に基本的人権が認められているはずですが、このような人権の無視が、「不良な子孫の出生を防止する」という狭隘(きょうあい)な価値観の下、戦後半世紀近くも継続されました。『星の王子さま』で語られた大人の価値観への懐疑は、現代の私たちにとっても、決して他人ごとではないと言えるのではないでしょうか。

 第3回は、このような画一化した価値観に対して、抵抗しうるという希望を与えてくれる事例を、地方行政と地域社会の側面から紹介したいと考えています。


〈参考文献〉
池田清彦『「現代優生学」の脅威』集英社インターナショナル新書、2021年。
畑谷史代『差別とハンセン病――「柊の垣根」は今も』平凡社新書、2006年。
藤野豊『戦後民主主義が生んだ優生思想――優生保護法の史的検証』六花出版、2021年。
毎日新聞取材班『強制不妊――旧優生保護法を問う』毎日新聞出版、2019年。


記事を書いた人:谷田利文(たにだとしふみ)
2007年京都大学文学研究科修士課程、博士後期課程、2012年パリ第10大学経済学科・2013年パリ第8大学社会科学科博士課程。
兵庫県立大学、関西大学、大阪大谷大学、京都大学の非常勤講師、大阪市立大学都市文化研究センター研究員を経て、現在は学校法人北白川学園山の学校、京都第一赤十字看護専門学校、大阪公立大学で非常勤講師を務める。
専門は、17・18世紀フランスの社会思想史・経済思想史。
2024年春ごろ『ひとりで学べるフランス語』出版予定

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