「多様な」価値観、実は5つだけ?
0:「みんな仲良し」は絵空事か
Can we all get along? は直訳すると「みんなで仲良くしようよ?」だが、このフレーズは一部の人間にとって1992年にロサンゼルスで起きた暴動を想起させるものである。この1年前に"黒人"男性が"白人"警官に暴行を受けたことを発端とする(主に加害者への処罰をめぐる)議論が米国中で巻き起こり、犠牲者53名を出す暴動にまで発展した。冒頭のフレーズは最初の被害者ロドニー・キングが放った言葉であり、人種間の分裂や差別の激化を嘆く悲痛な叫び、これらを乗り越えて協調することへの切なる願いが込められている。
1. 二極化が加速する世界で
それからもう30年近くが経つ。わたし達はロドニーが夢見たように "仲良く" できているだろうか?分裂や差別は収まっただろうか?彼の願い虚しく、答えは全くもって否であろう。
ロドニーが受けたような "白人警官" による "黒人" に対する暴力・批判は今日に至るまで繰り返し報じられてきたし、このように敵対するグループ間の溝はアメリカ、白人・黒人間のみならず、世界中のあらゆるところにあらゆる規模で依然として蔓延っている。
しかしこうして互いに攻撃し合うことに時間と労力が費やされているのは、なんだかもったいなくないだろうか?一体なぜ私たちは飽きもせず互いに責め批判しあい、敵対してしまうのだろうか?もっと建設的に話し合いをすることはできないのだろうか?
2. 正義感の根底にあるものは何なのか
ニューヨーク大学スターンビジネススクールで教鞭を執る社会心理学者のJonathan Haidtは、これらの問いにヒントを与えてくれる学者の一人である。ジョナサンは、人が何かに対して "間違っている" と感じることについておそらく誰よりも深く研究してきた学者である。
2001年にはポジティブ心理学テンプルトン賞受賞、2012年には『Foreign Policy』誌の100 Top Global Thinkers 2012に選出され、翌年にはイギリスの『Prospect』誌でWorld Thinkers 2013に選出された彼の著書(『社会はなぜ左と右にわかれるのか―対立を超えるための道徳心理学』訳・高橋洋)では人の正義感の根底にある5つの道徳基盤の概念について詳説されている。以下ではこの概念のわたしなりの解釈を加えながらご紹介していきたいと思う。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011174
※このnoteは同著書のプロモーションではありません
例えば、あなたは次の行為に対してどのように感じるだろうか?
(質問1)ある息子は父親の財産をほぼ全て相続した。息子には妹がいたが、妹はほとんど何ももらえない。
(質問2)コメディパフォーマンスのなかで、許可を得て自分の父親の顔を殴る。
私自身、1つ目の行為は(妹が例えば何かしら経済的な成功を収めている一方で、兄は子沢山な上明確に生活に困窮しており、それらの状況を考慮して2人で財産の配分について話し合いを行い合意した結果である、といった)何かしら事情がないかぎりは間違っていると感じる。なぜなら明らかにこれは「不公平」だからだ。
2つ目の行為については、間違っているとまでは思わないが、自分は絶対にしたくない。なぜならそのパフォーマンスを見た子供が真似てはいけないと感じるし、それは非常に「礼儀に欠く」と思うからだ。見た人も面白くないだろうし?・・・うまく言えないけど、とにかく抵抗がある。
しかし例えば1つ目の行為は、この行為に対してインド人の被験者とアメリカ人の被験者に対してアンケートを行った結果、その回答は大きく異なり、インド人の被験者は息子の行為は容認しうると回答する一方で、アメリカ人の被験者は間違っているという。
このように人が何か特定の行為を「間違っている」と思う時、その根底には「こうあるべき」という特定の価値観が存在するが、それは普遍的でも絶対的でもない。
では私たちは自らや相手が持つ価値観をどれだけ整理しながら理解しているだろうか。そして我々の正義感の根底にあるものは何なのか?ジョナサンはこの "根底にあるもの"を5つに分けて整理した。
①ケア / 危害
ジョナサンの紹介する道徳基盤の一つ目は「ケア / 危害」である。これは誰かが傷つくからいけない、という言い分を作る価値基準であると理解している。これを侵す行為は例えば「消毒した注射針を見知らぬ子どもの腕に突き刺す」ことなどが挙げられている。ちなみにこの価値基準、わたし自身は大抵の人にとって常に何よりも正しいことだと3年前までは信じて疑わなかった。
しかし日本企業のインターンシップに参加するためにバングラデシュから来日した学生2人の東京観光を引率したことを機にその考え方自体を俯瞰することとなった。当時バングラデシュから来た学生2人と東京タワーやヨドバシカメラなど王道スポットを一通り楽しんだ後、六本木のうどん屋で一息ついたときにふと「自分の国の誇れるところは何か」という話題になった。
普段あまり考えない問いに悩みながら数回レンゲを口に運んだのち、私は無人販売の話をした。九州の実家近くにはいまだに野菜が道端に並べられている。貯金箱と値段を書いた紙が貼ってあるだけで、売主は不在。誰も見ていなくても買主はきちんとお金を払うから成立する販売方法である。これは人々が正直であり信頼しあっている証で誇らしいと言った。しかしバングラデシュ人の2人は首を傾げるばかりであまり腑に落ちていない様子だった。
一方バングラデシュの学生の答えは2人揃って "独立戦争"だった。最新の兵器が不足する状況下で、隣国と戦い、あり合わせの武器を駆使し勝利を収めたという歴史が誇らしいのだと彼らは真剣な眼差しで語った。
私はそれまで「戦う」という行為を肯定的に捉えたことがなかった。戦うことは誰かを傷つけることで、それは普遍的に無条件に絶対に悪いことだと思っていたため、2人の言う「自分たちを守るためには、時に誰かが傷ついても構わない」と言う理屈に非常な衝撃を受けた。
② 公正 / 欺瞞
次にジョナサンがあげるのは公正 / 欺瞞 と言う道徳基盤である。これは先の(質問1)で私が挙げた「不公平だ」の根底にある価値観である。もう一つ例を挙げるとすると、これもジョナサンの本の中で用いられているものだが、下記のようなケースがある。
"友人から液晶テレビをもらう。このテレビは、1年前に空き巣が金持ちから盗んだものをこの友人が買ったものであることを、あなたは知っている。"
この場合、あなたはテレビをもらうことにためらいは感じないだろうか?ちなみにこの問題は法的にどうかとか、これが公になるか否かで場合分けする必要はない。あなた自身が "道徳的に" 間違っていると思うか、問題がない・正しいと思うかどうかを問われている。
公正という概念はおそらくジョナサンが挙げた道徳基盤の中でも最も曖昧で、これを主張する主体の利益に資するか否かに影響されているものだと思うが、政治的な文脈での「公正」については2種類に分けた上で次のように説明されている。
「左派は、公正を平等としてとらえる場合が多いが、右派は比例配分として考える。比例配分を重視する公正さとは「結果が不平等になろうと、報酬は各人の貢献の度合いに応じて配分されるべきだ」と見なすことである(224頁より)。
③ 忠誠 / 背信
もしあなたが自分の国ではない、海外のどこかで暮らしているとする。ある時ラジオトークショーに出演できることになり、(自分は正しいと考えている)自国批判を行うことになった。あなたはこれを抵抗なくできるだろうか?
もし抵抗があるのであれば、あなたは「忠誠」を道徳基盤の中に有しているということになる。
1954年の夏、社会学者のムザファー・シェリフは22組の労働者階級の両親を説得し、彼らの12歳の息子を3週間実験に参加させた。この実験では少年たちがオクラホマ州でのサマーキャンプに連れて行かれ、そこで11人ずつ2組に分けられた。それぞれの組は1日ごとに公園に行き、公園内の別々の場所にキャンプを張った。するとやがて少年たちは自分たちの "領土" を画定し始め、グループのアイデンティティを築き、1日ごとにくる「よそ者」の存在を察知しては敵対心を高めていく。この実験は人(特に男性)が先天的に部族的であるということ、そしてグループ間の争いを通じて、自グループの結束と勝利をもたらしてくれる物事を楽しむ様子が考察されたとされている。
また、このような部族主義的な性質は、古今東西いたるところで考察される。
たとえばコーランには、外部の人間、とりわけユダヤ人の不誠実に対する警告で満ちてはいるが、そこにはユダヤ人を殺すべしとは書かれていない。ただ、イスラムの戒律に背いた、あるいは棄教した者は、ユダヤ人よりはるかに邪悪だと見なされ、それゆえコーランは背教者を殺すことを命じている(228頁)
さらにこのような忠誠 / 背信 の道徳基盤は政治における対立にも大きな影響をもたらす。
左派の政治家は、国家主義から遠ざかって普遍主義に向かう傾向にあるが、そのため<忠誠>基盤を大事にする有権者にうまく訴えられない。実際、アメリカのリベラルは<ケア>基盤への依存が強すぎるため、政府の対外政策に批判的になりやすい。(229頁)
④ 権威 / 転覆
日本企業で働きたいという外国人の友人が何人かいるのだが、彼らに日本語の何が難しいかを問うと必ず返ってくるのが「敬語」だ。「外国の人だったらみんな許してくれるよ。気にしないでいいんじゃない」と言いつつ、いざ年下にタメ口をきかれると笑ってしまうし、やはり敬語を "学ぼうとする" べきだと自分がどこかで思ってしまっている。これは私自身が権威や階層制を想定した社会の中で生きているからであり、だからこそ相手との関係性を意識し、コミュニケーションをとる中で敬語を意識せざるを得ないのだということに気付かされる。
ジョナサンはこの権威 / 転覆の道徳基盤の存在と言語を次のように関連づける。
上下関係を尊重しようとする衝動は人間の本性の奥深くに刻み込まれており、それが言葉に組み込まれている言語も数多くある。フランス語の場合、他のロマンス系言語同様、誰かに二人称で話しかけるとき、敬称(vous)と親称(tu)を使い分けねばならない。文法に上下関係の配慮が組み込まれていない英語でも、それは別の方法によって表現される。最近までアメリカ人は初対面の人や目上の人には敬称+姓」(Mrs. Smith やDr. Jonesなど)で、また、親しい人や目下の人には名前で呼びかけていた。たとえばセールスマンに名前で呼ばれてカチンときたときや、ずっと尊敬してきた年長者に名前で呼んでくれと言われてとまどいを感じたときは、<権威 / 転覆>基盤を構成するモジュールのスイッチが入ったのだ(230頁)
⑤ 神聖 / 堕落
(質問)あなたは今度短いアバンギャルド劇に出演する。この劇では、出演者は30分間、動物のまねをしなければならない。例えば、裸で地面を這いまわり、チンパンジーのような声をあげるなど。
この質問で試されるのは、最後の道徳基盤 <神聖 / 堕落> である。ちなみにジョナサンは他にも様々な観点と例を用いながら解説しているが、今回用いられていた例はグロテスクすぎて、私は読めなかったため、「雑食動物としての」人間という観点から解説された一部分だけを以下で引用させていただくこととする。
雑食動物は、柔軟性という点で非常に大きな優位性を持っている。人間は、新大陸を発見した時でも、必ず食糧が見つかると確信していられた。しかし雑食にはマイナス面もある。食べられると思っていたものが、毒を含んでいたり、病原菌に汚染されていたり、寄生虫を宿していたりするかもしれない。「雑食動物のジレンマ(心理学者 ポール・ロジンによる造語)」とは、「雑食動物は、安全性が確認されるまで細心の注意を払いながら、新たな食糧源を探さなければならない」という意味だ。(238頁)
そのため雑食動物は、新奇好み(ネオフィリア)と新奇恐怖(ネオフォビア)という二つの対立する衝動を抱えて生きている。どちらの衝動が強いかは人によって異なり、この相違がのちの章では重要になる。リベラルはネオフィリアの度合いが高く(「経験に対して開かれている」とも言える)、それは食べ物ばかりではなく、人間関係、音楽、ものの見方などにも当てはまる。対して保守主義者はネオフォビアの度合いが高く、確実にわかっていることにこだわる傾向があり、境界や伝統の遵守に大きな関心を持つ。(238頁)
3. 新たな糸口は関係理解にあり
ジョナサンは上記5つの道徳基盤を詳説し、これらが人間性の一部として機能すると説く。したがってこれらのいわば「価値観」図鑑なるものを理解することで、他人が自分と意見を異にするときに何が根本的に異なっているのかをスムーズに理解できるようになる。
5つの道徳基盤のそれぞれは、異なる方法と程度で動員され、社会は分裂し、敵対するグループに分かれていく(著者の行った実験から、たとえば社会保守主義者は人々を結びつける「忠誠」「権威」「神聖」基盤を重視することがわかっている)。
しかし大切なのは、5つの道徳基盤はどれも重要で、明確な序列があるものではなく、中国における「陰」と「陽」の概念のように相互補完し合うものであるということである。
したがって、対立を緩和させる新たな糸口は、これら道徳基盤がどのように社会の制度と結びつき、相互に補完し合っているのかを理解することにあるのではないだろうか。
(※次回はこの補完関係について解説します)