継続的と持続的を意識する
同じようで微妙に意味が違う「継続的」と「持続的」
今回はちょっとした些細な出来事、でもこれを機会にnoteに記録しておこう、そう思い感じたことを書いてみました。
寝てても出来ることって、脳を動かして考えたり、スマホで記録したりすることは出来るから(笑
姿勢を意識するってホント大事!!
先日、腹斜筋の肉離れを起こしてしまいました。
農家してるとね、中腰姿勢の連続だから、もう持病と言っても仕方がないって思いたい😂
じゃあ何で僕らみたいな露地栽培でこの農閑期に?って思われる方がいるかもしれないけど、逆に農閑期だから筋肉が凝り固まって、ちょっとした気の緩みでやっちゃうことあるんです。
(今回も30kgの米を何気ない姿勢で運ぼうとした瞬間にピキーン!って。あ、やっちまった…と💦)
この痛みを良い方向へのキッカケとして捉えるなら日頃の姿勢って大事とか、ストレッチ体操は必要とか色々感じ取れるところが出てくるんです。
一方アタマでは分かってても中々できないこともあるから悩ましいとこなんですけど(笑
意識するってホント容易じゃない・・・
人間の姿勢ってよく出来てる!
さて、肉離れっていうと太腿とかふくらはぎのイメージがありますが、「ギックリ腰」も大きく分けて、この腹斜筋肉離れが含まれるそうです。
簡単に言えば、要は骨に影響なのか、筋肉に影響なのかの違いらしい…
骨だとギックリ腰からのヘルニアとか。(専門家じゃないので悪しからず)
今回のは筋肉が凝り固まり、捻れた姿勢に負荷がかかってしまったのがおおよその要因、鍼灸してしばらく固定して安静、ほぼ寝たきりじゃないとダメだそうです(>_<)
横に姿勢よく立つ以外何も出来ないこの辛さ。
トイレするのも、お風呂に入るのも苦痛…
パソコンで事務作業しようにも「座る」ことさえも負荷がかかって痛みが伴い…
動作一つ一つがそれぞれの可動域につながっていることを感じます。
肋骨開いて下腹部を持ち上げてのコルセット矯正じゃないと意味がないとか、体験するとめちゃくちゃ分かるんです。
コルセット矯正で姿勢が保たれる事で不思議と痛みが緩和されるんですよ。
あらためて、人間の姿勢ってよく出来てる!って実感しましたね。
姿勢は心にもあって、意識することを「意識」する
身体の痛みによって今回感じた「姿勢の大切さ」
姿勢は身体だけを想像しちゃいがちですが、心の姿勢もあるなぁーって思ってます。
心の姿勢が悪いと、不思議と言葉に表れるんじゃないかな?と。
何かを見ようとしたときに、一つの向きだけで見てたりしていないですか?例えば缶詰を見た時に上から見るか、横から見るか、はたまた下から見るか、全体を俯瞰して見るか、それは起きた現象によって見方は色々あるし、そこから感じることは意外と違っていたりすることがあると思います。
意識することで本来出来るはずの、色々な側面で見ることが(視点、視野、視座etc・・・)出来てるようで意外に出来てないことが多いことに気付かされますし、見たこと感じたことを自分の価値観で言語化しちゃいます。
もちろん最初は誰かの言葉を借りることだってあります。悪いことではないし、その言葉から学ぶことはたくさんあります。
だから価値観違えど様々な方と出会う楽しみがあるわけです。
ただそれをもう少し広く深く踏み込んで、かみ砕いて実践や体験を通して、過去に縛られず「今」に合わせて腹に落として自分の言語にしてるかな?
と振り返りが起こるんです。言語化していないとその振り返りの回数は少ないか、もしくは過去の言語をただ変換させただけに終わるような気がしています。(この言語化や振り返りをする楽しさを教えてもらったのはやっぱり『かん味処』ですよ、間違いなく🎶)
もちろん表現は自由です。
考えるためのキッカケとして、実はとっても良いことなはずなのに、自分の言語になってない上で、ひどいときにはそれを他者に押し付けるなんてこともあるし…
さらには自分の言語にさえもなってなくて、自己の勝手解釈でミスリードする場面に出くわすと、何とも言えない歯がゆさも感じてしまうんです。
だから「身体も心も姿勢を意識する」って案外、意識することを意識することがスタートラインかも?って思いました。
「姿勢」や「意識する」ことから学ぶこと
なんでこんなことを書くか?って、たぶんどんな職業に就いたとしても、身体があって、心があってはじめて成立する仕事が大多数じゃないかなって思うんです。
人間と人工知能の臨界点(シンギュラリティ)が起こる、結果人口知能が人間を超えて、人間はロボット化みたいな論調があることも知ってます。
それによって働く場所を失う業界だってあることも。
でもそれって人間が『考えること』を止めるからではないかな?とも思うわけで、あくまで人口知能は人間の行動や思考を代替したり、補足したり、人間と協調することと見方を変えたら、人間の在り方そのものも本質的に変わるのではないかなと。
だからこそ最初の一歩の意識の姿勢として、
★『考えること』を止めない。
★『やらずに答えは出さない』
やるか、やらないか?で迷ったときはまずやってみる。
★『アタマでっかちにならない』
知識は所詮知識で終わる。
「知る」「分かる」「判る」「解る」はそれぞれ違いがあるんだと。
土台や軸(姿勢)を持続的かつ継続的に「意識する」
以前のnote(すっぴんやさい農家)で僕たちが届けたいことを書きました。
あらためて「意識する」だけでも背筋がピーンとなります。
先を見据え持続的に一生の仕事として従事したい!!
その選択肢としての手段が僕たちが実践している自然栽培という栽培方法になった理由の一つになるわけです。
何故なら、1反(約1000㎡)当たり○t堆肥を、肥料を○○〇kg撒くって、機械があればまだしも人力でやろうとしたら?
今はまだ若いから人力で出来るかもだけど、一生の仕事として考えたときに高齢になったときに出来る?肥料も資源の一つだし、いずれ調達が容易じゃなくなったり、もしかしたらなくなる恐れだってある?
ただ自然栽培とはいえ自身への甘えは許さないようにしています。
外見も内面も全方位で良いと思ってもらえるものを育てて、どんな人にも受け入れられる野菜そのままの姿を最大限に引き出して、そのままの味をお届けする!!
それが『すっぴんやさい農家のべっぴんやさい』だから。
僕らが「意識する」ことで生み出される約束事になっています。