手話をやる事=難ろうの役に立つ ではない
誰もが「難ろうの役に立ちたい」
とは思っているけれども
誰が良い悪いなどという話でもないし
手話をやる聴者の誰もが「誰かの役に立ちたい」と思っているんですよね、
という話ではありますが
手話パフォーマーで、
「手話をやるのは、難ろうの役に立ちたいから」
「手話をやっている事は、難ろうの役に立っている」
と思い込んでいるケースが多発していませんか?
どうしてでしょう?
私は自分なりの答えを持っていますが、皆さんはどう考えますか?
手話をやっている方は、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいです。
手話を母語とする方々は、どう感じますか?
ぜひ教えて頂きたいです。
なぜ「手話」にばかり注目するのか
もちろん、手話以外の事や
手話だけではなく、様々な角度から行動を広げている人も多くいらっしゃり
そういう方々は「手話でパフォーマンスをしている」ワケではないので
その姿を前面に出さない事も多い。
誰に見せるワケでもなく、聞こえの世界に尽力している方々の行動は、本当に素晴らしいな~と、尊敬しています。
正に、SNSがここまで世の中の情報に影響を与えているからこそ
難聴ろうに携ろうとすると
「表に出にくい、手話以外の事で難ろうを支えてくれている方々」よりも
「手話をやっているパフォーマー」ばかりが目につき
新しく「よし、難聴ろう者さんの為に何かしたい!」と思った時に
真っ先に「手話」という発想になるのかもしれない、という仮説はあります。
難ろうの方々を「どの視点で見ているのか」
手話だけをやっている方々も
「聞こえない、聞こえにくい方々の役に立ちたい」
という気持ちに嘘はない
なのに、『手話』ばかりに意識の向く手話パフォーマーの多いこと。
どうしてだろう?と思って、たくさんの方々の思いやエピソードを吸収して
私は私なりに答えが見つかったと思います。
*
考え方は色々あり、どれが正解か不正解かという話でもないので
明言は避けますが
私が持っている答えのヒントを一つ、言うと
「視点」です。
手話や、難ろうをどの視点で見るか
角度を変えると
「他にも出来る事がいっぱいあるのになぁ」と思います。
聴者は、手話を見ても
「やってみよう、やってみたい」とは思わないその現実すら、見て見ぬふりをしていないか?
手話をやっている人の中で “手話以外の事” で動く人って
どのくらいいるんだろう?
手話に興味や関心のない聴者に
どれだけ手話を見せても、ゼロやマイナスにはならないとしても
手話が広まるワケでもなく
難ろうの理解への深まり方が浅い、という現実もあまり見えていない。
なんでだろう?
「ね、手話って素敵でしょ?」って思うのは、
手話のゼロイチの壁をクリアしている人だけです。
“手話をやる事” と、“難ろうの役に立つ事” を
混同している人が多い
もちろん、ちゃんと現実も見えていて、
必要な事を理解しながら、敢えて手話を選んでいる人がいっぱい居るのも知っています。
先述の通り、「手話だけ!」って思っていないからこそ、そういう方たちは目立ちにくいだけなのかもしれません。
それにしても
手話をやっている全員が「手話以外の事もやろう」と思ってくれるワケはない…としても
感覚値で「“手話をやる事”と、“難ろうの役に立つ事”を、混同している人が多いぞ?」という印象です。
しかも、ワリと立場のある方や、影響力のある方までも
そのような思考が強めな事に、最初は驚きました。
ある意味、それだけ手話って重要なんだな、とも思います。
視点を変えて、もっと楽しく手話ができて
しかも、難ろうの方々が生きやすい世界に
私が「手話そのもの」ではなく
「手話をやっている人」や「手話・難聴・ろう者を取り巻く“手話の世界”」の方に
より強い興味を持ったのは
こうした「なんでだろう?」が積み重なり
その理由を知りたかった…というのも、きっかけの一つです。
「手話をやる」事と「難聴ろう者さんの役に立ちたい」は
似て非なる事なのに、混同している人が多い
そんな手話の世界をちょっと捻りたい(Switch)
少しでも視点を変えて、もっと楽しく手話ができて、
しかも、難ろうの方々が生きやすい世界に、みんなで一緒に出来るといいな!
と思っています。
*
『どうやって?』➡それをハニポでお伝えして行きます。
これまでにない視点で「手話歌の振付」をやって行きます。
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