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「手話」+「歌」は、本当は合わない

「手話歌」と「歌」の本質的な違い

どんなに手話が上手くても、表現が上手くてもネイティブでも、
「歌」や「音楽」として心の琴線に触れるパフォーマンスを魅せるなら、
本物の音楽アーティストには敵わない

「歌」は、言葉だけでも音や声だけでもダンスなどの動きだけでもない。「言語」ではない部分をたくさん使って「音」や「言葉」で「遊ぶ」
遊びながら「音」を「楽しむ」のが「音楽」だから、
本当は「手話歌」ってすごく合わないモノの組合せだと思う。

だからこそ「やって楽しい」のかもしれない。
だけど万人ウケはしないから、誰にどう魅せようかな?
って考えるの、楽しいって話。

【要約・結論】

ろう者さんに見せる・伝える事を考えるなら「手話」➡「音楽」って、ない。

手話歌が大好きで楽しくてやっておりますが、
約500人の手を動かし、約70曲の振付をチームとして振り付けしてきて、
「手話」+「歌」は合わないという、元も子もない結論です。

逆の立場で「音楽」➡「手話」も変。

ネイティブの方が
「手話歌、伝わらないからやめて欲しい」と思うのと同じように、
音楽をやっている身で手話の世界の事も、音楽の事も知った上で、
手話歌を見ると
「手話歌、音楽じゃないからやめて欲しい」
と目を覆いたくなる気持ちになります。

「伝わる手話歌」の問題点

「伝わる手話」の手話歌は、音楽を〇している。

手話を解っていない人が見たらどう思うかわからない。
手話歌にも種類があり、その種類にも依る部分はある
という要素はあるので、一概には言えないという事を前提に、ですが

特に流行りの曲や「音楽アーティストの歌う楽曲」の手話歌は、正直、
せっかくの素敵な楽曲・音楽をダメにしてしまっている部分もあります。

限定的な選曲

また、楽曲の中でもやっぱり
「ギリギリ手話にできる歌詞」の選曲に限定されるのであれば
「音楽を伝える」という事にはならない、という思いもあります。

手話歌の限界と誤解

ここは、言葉を選んでお伝えしたいところなんですが、
手話をやっている人が見て「イイネ」という手話歌は、
音楽を台無しにしてしまっているものが多いです。

手話歌を見てイイネと思うのは
殆どが “手話のゼロ→イチの壁” をクリアした人だけであって、
手話に興味も意識もない人には「ふ~ん」で終わってしまい、
なかなか刺さりません。

「手話で遊ぶな」と言われるけど、そもそも「歌」って言葉遊び

「手話で遊ぶな」と言われるけど、そもそも「歌」って言葉遊びですよね。
どういう事かというと、そもそも、音楽で使われている歌詞は、その殆どが
「言語としての言葉」ではなく、
「言葉を音に乗せて楽しむもの(言葉遊びをしているもの)」であって、
語学に正確ではないところで、心に響かせるからです。

歌(歌詞)を「手話寄り(言語寄り)」にする事で、
その曲(歌っている人や、作っている人)が本当に伝えたかった思いを
伝えるのではなく、「歌詞を語学として訳してしまう」
するとやっぱり、言葉遊びをしている「音楽(歌)」は、
手話や手話歌では伝えられない。

「伝わる手話歌」は精度の低い翻訳機と同じ

例えていえば、言語としての手話は合っていたとしても
感情表現として、伝わるというワケではない。
歌詞としては、Webの精度の低い頃の翻訳機能で、歌詞を訳しているように見えてしまいます。

「違う、そんな思いを伝えたくて、この歌詞、この言葉を選んだんじゃない!」といったように。

伝わる手話は結局

歌(選曲)にも依るのですが、
「その変な言葉、言葉遊びだからこそ、伝わる」という歌(歌詞)が多い中では、逆に言えば
その語学的に正しくない言葉じゃないと、な~んか伝わらない」。

伝わる手話は結局「変じゃないと伝わらない言葉を、辞書で引いたかのように言語に正してしまう」から、
アーティストが伝えたかった思いが、なんとなく…カッコ悪くなる。
カッコつけたくて、歌(言葉遊び)してるのに、と。

生きる為の「手話」は、エンタメ(音楽)には合わない

そんな感じで、ろう者さんにとっての「手話」は、生きる為に必要な命がけの言語ですから、
「難ろうの方に伝わる手話歌」をやろうとすると、「言語に寄った手話歌」になる。

「言葉をアレンジして、語学や言語の型を無視して紡いだ歌詞」である音楽(歌)を手話で奏でられるワケはないのでは。

手話にし易い曲、はありますが、どちらにしろ、殆どの音楽は「会話の為」に言葉を選んで紡いで歌詞にしているワケではないので、
正確な手話に寄せれば寄せるほど、せっかくの「音楽としての歌詞」からは遠くなります。=(イコール)、音楽としては「ダサ見えする」

「手話として、ろう者さんに、伝わる手話で手話歌をしてますよ~」という手話歌があったら「歌詞の思い、捻じ曲げちゃってますよ~」というのが大多数のように感じています。

見た人が「素敵ですね~⤴」と言ってくれる聴者(手話全くわからない)である場合、
それは「言語として素敵」と思ってるワケではなく、
大げさに言えば「手をデタラメに動かしていても、それっぽければ素敵に見えてるだけ」で、それが悪いワケではないけど、
「おいおい、ろう者さんには歌詞の思いが逆に伝わってないぞ~」という。

「うわぁ~⤴これで、ろう者さんにも、推しアーティストの気持ちが届いたんだ~⤴」とかって、手話の事を勘違いさせてしまう。私も勘違いした。

・・・というつぶやきをプラス。

これ、音楽も手話もちょっとずつわかる立場にいないと、
気付かないポイントだから、これまで誰も、ココをツッコまずに
「言語として伝わらない手話歌は、ろう者にはモヤモヤ」
とかなんとか言われるんですけど、当たり前ですって話で、逆に言えば
「音楽として伝わらない手話歌は、アーティストにはモヤモヤ」つまり

「言語寄り」にすると音楽ではない
「音楽寄り」にすると言語ではない

両立する手話歌があるとしたら「元々手話歌を前提に作られている楽曲でネイティブな手話歌」に限られます。

それが手話歌なんだと解ってきました。
「音楽として、ろう者さんに伝わる手話歌」は存在しない。あるとしたら、それは「歌や音楽ではないモノ」という意識で活動しています。

なので「伝わらない」と言われて当たり前と思って、
「音楽に寄った手話歌」を私たちは行っています。
そんな手話歌の特徴から、
別の活用方法を見つけて、それを有用に活かしています。

結局、一番伝わるのは・・・?

自分も、何の知識もなかったからこそ
「聞こえない方とも音楽を一緒に楽しみたい、そうだ手話歌だ!」
となり、手話歌を始めました。が、
手話でも何でもない、本物アーティストの生のパフォーマンスを見るのが、聞こえに関わらず一番伝わる。

聞こえない方 / 聞こえ難い方も、LIVEに足を運んで、
その会場の空気、音響の振動、観客の熱、ライブパフォーマンスをしているアーティスト本人の気迫、
そういったものを一緒に体感して、一緒に「楽しかったね!」と、
感じ方を語り合えるようになる。そんな世界を夢に見ています。

手話の世界の「役割分担」

「先ずは難ろう・手話に興味を持ってもらう!」という活動に特化しよう
と思いました。
難ろうの方も一緒に今後の手話の世界の事を考えてくれたら嬉しいです。
周囲の手話仲間にどうぞ、シェアしてください。

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