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洗剤空きボトル奮闘記。〜不感症にならないために〜

変な題名になってしまった(笑)

結婚に伴い、7月に引っ越しをしました。

その引っ越しの準備の際、

2人で住むにあたり

もう今の自分には必要ないものを手放すべく

モリモリ断捨離に励んでおりました。


「そもそもわたし、そんなにモノ多くないねんな〜。

定期的に断捨離してるし、買わないように気をつけてるつもり。

2年前バックパッカーするときにかなり処分したし。

ヨガの学びでも、持たないってとても大切なのよねん。」


ってどの口が言うとんねん


自分が旦那に話していた口ぶりを思い出して今にも穴掘りそう。

片付けていると、出るわ出るわの不用品。

いや、その実、

わりと、普段から片付けをしていない方ではない。

と思っている...

自らそう言うレベルでは中の中か、

中の下であろう。(自覚ありw)

まだ捨て切れないCDやDVD、譜面、

きれいなポーチ。(使用頻度少)

被っている調理器具。多すぎる紙袋。

着ていない服はもうほぼ無いけど、

使用してないかばんを捨てるのが難しい!

そして、郡を抜いて1番捨てるのが

しんどいのがコレ…!!

使わなくなった(洗濯)洗剤の空きボトル。
(シャンプーや食器用洗剤の空きボトルなども)

実はもうずーーーっと洗面台の下にしまってあった。

捨てていないだけ。

以前は

「またこのメーカーを買うかもしれないな」と

空きボトルをとっていたけど、

今は環境に比較的優しいヤシノミ洗剤一択で

ハイターの代わりは重曹、セスキ、クエン酸のいずれかを用途で使用しているので

だから、もう、必要は、無い。

ずっと無い。

わかっているのだけど、

このゴミの行方が気になって捨てれないでいた。

私の場合、そんな気持ちの乗ったものが不用品の3分の1を締めている。

気がする。

ゴミあるあるで、

この区はプラもペットもキレイに洗って、

リサイクルをするけど

隣の区は全部ごちゃまぜ。

“大阪の焼却炉は超高温だから全部燃える”

という謎の説が囁かれたり、

これらの洗剤の空きボトルも「プラ」と書かれていて

プラゴミの日に一見捨てたくなるけど

このハイターの中身をゆすいで中を完璧にきれいにするまで

水を流し乾かしたとて、再利用されるプラでなければ

結局リサイクルも妨げ、水も汚し、高温で焼かれ有害物質を発生させるだけだと想像したらハゲそうになる。(笑)

なので結局、私の住んでいる地域では

これはそのまま“燃えるゴミ”となる。

なら、もう少し、ここに

この洗面台の下に置いて置こうではないか。(笑)となる。

結果、今ここ。

ついにコレを捨てるときが来た。

ああ。苦しい。

でも、でも。

この苦しさを感じなくなったら不調和の始まりだな。と思う。

自分の行いに何も感じないのは

“不感症”だ。

自分の望みがわからないこともそう。

今の世の中の苦しみっていうのは

“不感症”から来ている。

“感じるちから”が無い、のは

無自覚であるということ。

自分が世界の一部であるという自覚がないこと。

それがないと、人は

どんどん苦しく不調和になってしまう。

なんでも自分には関係なく、

捨てる。買う。満足できない。

見失う。自然のちからから切り離され、

生きるエネルギーが少なくなり

それをまたモノで補う。

なので、今まで便利に使わせてもらった感謝と、

たやすく手に入るものは、

こうして捨てるときに大変だと

肝に命じて、さらに快適に暮らしていくための

糧にさせていただかなければいけないですね。


そしてもう出来るだけ、

買わないこと。

よりシンプルに快適に暮らせるものにシフトし続けること。

自分の無理ない範囲でネ!

それでも、やはり。

まずは捨てないと。

前に進めないのだ。

それが罪悪感かもしれないし、

執着や思い出、もったいない気持ち

悲しみや喜び。

モノにより様々だ。

でも進もう。

不感症でないうちに。