この仕事何の意味があるん?って思った時に読むブログ
僕は新卒1年目のしがない社会人である。
いわゆるサラリーマンっていう人間だ。
今このブログを24卒や25卒のみんなが見てくれているのならそのまま見続けてくれ。
そうでなくても、「今社会人1年目だ」っていう人がいるなら読んでもらって構わない。
しかし、僕よりも年齢を重ねている人にとってはもしかしたら響かないかもしれないからそれを承知しておいてほしい。
思うに、
みんな夢と希望を持って、
「こんなことやりたいです!」
「こういう風に困っている人を助けるために僕は生まれてきたんです…!」
と面接では口々に話して入社してきた。
面接で受かるために盛った部分もあるだろう。
でも、もちろん真に自分が心の底から思っていることもあるはず。
僕もそうやって面接を突破してきた一人だ。
本当に本気で自分が成し遂げたいこと、理想の未来、理想の世界、そんなことを頭にありありと浮かべて入社した。
…そういう人種の人間が何に悩むか。
そう、「リアリティショック」だ。
リアリティショックとは何か。
簡単にいえば理想と現実のギャップのことである。
今この記事を読んでいるそこのあなたが入社前もしくは入社直後に描いていたあの理想の未来と…そして今。
それら2つを並べて天秤にかけた時の差分がリアリティショックである。
かく言う僕もかなり悩んだ。
しんどかった。
今の仕事に「何の意味があるのだろう」とすごく思った。
今日ある人と話していて、「大学時代に何かを成し遂げている人ほどしんどいのではないか」と言う仮説が立った。
僕個人としてはこの仮説はかなり鋭いと思う。
大学時代にガッツリ営業の仕事をしていたとか、僕みたいにYouTubeでたくさんの人に感謝をされたとか、何かしら数字で実績を残したとか、全国大会に出場したとか、
「自分が主人公」
そんなRPGを生きてきた人こそ、このギャップにもがき苦しむ。
大学で、僕は4つのことを成し遂げた。
一つはYouTubeで多くの受験生に「メンタルケア」で評価してもらい、登録者が10万人を突破したこと。
一つはアカペラで4つの全国大会に出場したこと。アカスピにもハモネプにも出た。
一つは塾講師で生徒・塾長から認められたこと。僕のおかげで…と言う声をたくさん聴かせてもらった。
一つは心理学と英語をそれなりに勉強し、京都大学という日本で2番目に頭がいいとされるところの大学院に入学したこと(やめたけど)。
確実に僕は「主人公」だった。
RPGでいえばレベルは70か80…いや、99だった。
だからこそ、またレベルを1から歩み、
最弱の状態からスタートする「ニューゲーム」が大変だった。
変な理想、固着したこだわり、未来への幻想。
そんなものが僕の脳みそを支配した。
これに加えて仕事のミスをするわ、やることをすっぽかすわで、自分の存在価値も徐々に削れていって、僕のHPは文字通り0になってしまったわけである。
そして休職をしてしまった。
そんな僕が思うに、「理想や夢はガラスのショーケースにずっと飾っておく」ものだと思う。
身につけるべきものでも、ガラスをぶち破って手に入れるものでもない。
僕は個人的に高級時計というものは「見て値段を確認して驚愕する」ものだと思っているのだが、それに近いかもしれない。
夢や理想、野望や幻想。
もちろんなんでも持っていい。
人間なのだから。
夢の一つや二つくらい持つ権利はある。
でも、この10年、いいや20年。
グッと堪えてそのガラスのショーケースの奥にある野望という高級時計をぶち破って身につけるべからず。
そう思うのである。
それを身につけようとすればするほど体力を酷く消耗して、メンタルもやられる。
大学の間に感じた社会の課題、理想の未来、成し遂げたいこと…
それら全部「僕らの宝物」だ。
でも、長らくはその宝物をショーケース越しに見る日々が続くことを覚悟しておこう。
その宝物は「会社員」って言うキャリアを選択した瞬間からガラスのショーケースに大事に保存されるものになった。
だから、
自分は人を幸せにするんだ、と意気込んで入社したは良いものの、
「この仕事が誰の幸せにつながるんだろう」
と思う日々なわけである。
でも、僕が思うに、そもそも人を幸せにするっていうのはめちゃくちゃ難しいんだと思う。
そもそも人の感情という不可侵領域は、そう容易く外部から操作することができない。
だから、100のリソースを投入しても、人の感情は1しか動かないのである。
そんな中で、社会を生きる大人たちはそのたった1でも動く他人の聖域のために自分の100を投入しているのだ。
そうやって社会は回っている。
僕らも100の投入に対して1しか動かないこの世の中に慣れたほうがいい。
ボランティアなら100の投入に対してもう少しは感情を動かせるかもしれないが、お金を稼ぎながらそれをするのは至難の業なのだ。
そして、別に幸せにする相手は顧客だけじゃなくていい。
同じ部署内のメンバー(先輩方)でもいいし、同期でもいいし、恋人でもいいし、自分でも良いのだ。
自分が100のリソースを投入して、誰でもいいからその感情が1でも動けば、大勝利ってわけだ。
そもそも、24時間命の危険にさらされながらビクビクヒヤヒヤして生きている世の中の動物たちや過去の類人猿のことを考えたら、「殺されることがない」という環境がそもそも儲けもんすぎる。
その「殺されない権利」の価値があまりにも大きすぎるから、代償として仕事が面白くないのである。
労働で人々を幸せにして、自分は自己肯定感を高めようだなんて虫が良すぎる。
そもそも会社はcompanyーー「パンを食う仲間」にすぎない。
顧客価値が云々、社会課題が云々と言うが、本質はパンを食う仲間なのだ。
利益だけを追求するならハッキリ言ってそこのお前は要らない。
断言する。要らない。
僕ももちろん要らない。
その分コストカットしたほうが会社のためだ。
でも違うんだよ。
「俺らと一緒にパン食わねぇか?」って誘ってきてんのが人事の会社説明会であって、エントリーシートであって、面接なんだ。
パンを食うために誰かの課題を解決したり、幸せにしたり…っていうことが従属的に必要なだけであって、そこのお前がパンを食べられるっていうことが最重要事項なんだよ。
「この仕事が誰の幸せにつながるかわからない」
「こんなことやってても面白くない」
「雑用なんてもうごめんだ」
…っていうのはそもそも論点が違う。
仕事の本質を「誰かを幸せにすること」「自己成長をすること」に定めてしまうからしんどくなるんだ。
自己成長も誰かを幸せにすることもまさしく「手段」だ。
だから、そういう解釈はまさに自己目的化なのである。
自己目的化の呪縛にハマっているだけなのだ。
だから、そういう「パンを食べるゲーム」だと思って、自分なりに面白く噛み砕けばいい。
白米だって適当に噛んで飲み込んだらほぼ味なんてしない(言い過ぎだけど)が、よく噛めばアミラーゼと絡み合って甘くなっていく。
仕事もそういうもんだと思う。
社内の生成AIに「何も思いつかん!クソが!」って愚痴をぶつけるとか、
昼休みにピザ食いながらドラクエするとか、
「今この雑用をやっている間に40年目のベテラン社員が働いているから、つまりこの5分間は僕の時間にベテラン社員のバフがかかったチートタイムなんだ」とか思いながら色々やったりとか、
そういうふうに、「いかに面白くやるか」「いかに美味しくするか」っていうだけだと思う。
ちなみに新人がよく思い悩むことの一つに、「先輩たちは楽しそうに働いているのに」っていうのがあると思う。
僕は先輩たちを見ていてよく思うのは、みなさま「ゲラ」だっていうこと。
ことあるたびに笑う。面白くなくても笑う。
社交辞令に社交辞令で返して笑う。
最初は「なんだこれ」って思うかもしれない。
でも、それは「いかに楽しくやるか」っていうことの一環なのだと。
最近そんなことに気づき始めている。
ゲラでいること。
何気ないことに笑いで返すこと。
社交辞令というフォーマットに対しても笑いという感情コミュニケーションを作り出すこと。
…全て「いかにパン食いゲームを楽しくやるか」っていうことで紡ぎ出した先輩らの一つの答えなんじゃないか。
だから、我々新人もそれに乗っかってしまえばいい。
先輩方が「楽しくパン食おうぜ!」って言ってるのだから、そこに乗っかってしまえばいい。
仕事なんて、大局をミスらなければなんとかなる。
(いや、多分大局をミスっても究極はなんとかなるんだと思う。僕がまだそう思えていないだけで。)
自分の行動で誰かが怒るとか、めっちゃ怒られるとか、そんなもんはほっとけばいい。
ありがたいことに、会社員っていうのは「怒る」と「嫌い」があまりつながらない生き物だ。
あなたを怒ったからと言って、嫌いにはならない。
というか、嫌いになってくるようなヤツはもう先輩じゃない。
ただの肉の塊だから放っておけそんなもんは。
究極、「怒ってくるほうが悪い」
勝手に自分で爆発してカンカンになってるんだから、そんな奴のことは知ったこっちゃあない。
爆発して発散してグダグダ言ってるんだから放っておけばいい。
だって、その人はその人の中の心の蟠り(わだかまり)を自分で発散しているじゃないか。
じゃあ解決。
放っておけばいい。
パンを食う仲間だってこっちは歩み寄っているのに、向こうがそれをわかっていないのならもう放っておけ。
同じ座標に居るように見えて、多分そいつは僕らパン食いゲームの世界とは違う平行世界にある虚像だ、そんなもんは。
先ほど述べたように、人の感情は「不可侵領域」であるということを承知しておいてほしい。
相手の怒りが云々というのは相手が処理するべき仕事なのである。
あなたの仕事はあなたの感情に関連するものだけ。
だから、別にあなたは表面上申し訳なさそうな顔をして、一応再発防止策も考えるものの、感情としてはハッピーな気持ちで居られる権利を確かに持っているのだ。
だからもういい。
誰かを悲しませることだけを絶対にやめよう。
これだけやめればオッケーってことにしよう。
遅刻をして怒られるのは別にいい。
怒らせておけばいい、とすら思う。
でも、遅刻をした結果相手が悲しむのなら絶対にやめよう。
例えばあなたが誰かに動画の制作をお願いしていたにもかかわらず、「やっぱり無しで」っていうことになってしまったとする。
もし、相手がすでに動画の制作に着手していたとすると、「この動画が無駄になっちゃったな」と思う。
そして、悲しむだろう。
こういうことを絶対に避ければいい。
もしそういう事態になってしまった時には、誠心誠意謝ればいい。
「あなたのことを大切に思っているんです」
「でもそれが叶わなかったんです」
「本当はリスペクトしているんです」
それが伝われば、相手は悲しまずに済むだろう。
これが大局をミスらないということだ。
悲しませないこと。
悲しませてしまったとしたら、その悲しみを一刻も早く食い止めること。
「誰もを悲しませない」
これだけ守ればあとは好きに生きていい神からのプレゼントなのだから、好きにやれば良い。
パン食いゲームをいかに楽しむか。
それだけだ。
つれづれ。