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御成門になる

 はぁ、かったるい。かったるいなぁ。3週間みっちり休息をとった体にムチ打ってこんなことするのは、かったるいこと山の如し、ほかに類を見ない。漏れ出た怠惰を察したか、はたまた3週間ソファ周辺を陣取りカビを生やしていた長兄が出掛け支度をしているのを見て珍しく思ったのか、
「どっかいくの?」
と高一の弟が聞く。
「ちょっと御成門へ」「え?」
「いやだから御成門」「おなりもん?」
なんだこいつ。イジり甲斐のあること言ってんなみたいな顔してこっちを見るな。ゲームセンターにたまにいるリズムゲームやたら上手いやつみたいな髪型しやがってからに。それから弟は「そんな場所ないよ」と、のたまうので、ちょうどパソコンの画面に開いていたマップを見せようとすると、弟は先の言葉を吐き捨てて既に家を出ていた。
 
 残された御成門。あらためて地図を見ると、皇居を隔てて北に位置する“じんぼちょう”も“おなりもん”的色眼鏡をかけて見てしまう。

 金曜日の朝からこんなしようもないことに惑わされているわけにはいかず、なぜならば今日はもちろん御成門に赴く予定があり、御成門に何があるのかといえばアルバイトの面接である。僕の住むZIKKAからは通勤1時間半もかかり、なんでそんな御成門くんだりまで働きに出なければならないのかというと、それはもうお賃金の都合でしかなく、世知辛い。

 それはそうと、お賃金すらも“おなりもん”的色眼鏡越しに読んでしまうので、朝一番に弟に植え付けられた呪いの効果がてきめんである。

 とまあ花の金曜に似つかわしくない下品な思惑もこのくらいにしておいて、3週間の怠けによってカビの生えた精神を熱々のシャワーで清めて、思いがけず濃く淹れてしまったコーヒーを飲んでシャキッとしたところで、家を出た。

 玄関の扉を開けて、10段ほどの階段を降りる。するとそこには人間の胴体を持ち、一般的な人間であれば頭がついているはずの部分にタコの全身が載ったようなものが裸で立っていた。僕が知っている限りタコは服を着ないはずなので裸と表現していいのか分からないが、胴体は薄橙色をしておりヒト感が強いので裸といっても間違いではないと思われる。
 そいつは股から生えた、大豆もやしのような、天井に吊るされた裸電球のようなものを全力で摩擦していた。仮にただの変態であれば叫ぶことが承認欲求に繋がってしまうのではないかという危惧はあったが、存外気持ちが悪かったので、心から、近所への注意喚起の意味も込めて大げさにワッ!と叫んでみた。しかしそいつは僕の拒否反応など意にも介せず摩擦運動を止めることはなかったので、こちらもドシッと構える必要があるなと気持ちを切り替えて、出せる限りの低い声で
「お前は誰だ」
と問うてみた。するとそいつはディズニーの海賊映画に出てくるタコをモチーフにしたキャプテンよろしく、頭部の蛸足、8本あるうちの中程の2本を揺らして甲高い声で
「おなりもんだ」
と自己紹介をするではないか。僕は、「ああ〜“おなりもん”て“おなり者”ってことか」と頭では納得して、しかし“おなりもん”の見た目、想像していた声とのギャップ、行動の気持ち悪さたるや我慢ならず、2時間後にはアルバイトの面接が控えているというのに訳分からんことしてくれるなという気持ちを拳に込めて、実際に声にも出して“おなりもん”の首に据えられた蛸の横面を殴り飛ばした。蛸の横面に拳が接した瞬間に吸盤が張り付く嫌な感触がしたが構わず振り抜いて、駅へ走った。30メートルほど走って後ろを振り向くと、“おなりもん”は未だ地べたに這いつくばっており、か細くも頭に響く甲高い声で僕のことを罵倒しているようだが、追いかけてくるような気配はない。念のため、もう50メートルほど走り、疲れたのでそこからは歩いて最寄り駅へ向かった。右手の甲にはまだ蛸の横面の不快なヌメリが残っていた。
 “おなりもん”は明らかに人外であり、もし仮に妖怪の類であれば急に目の前に出現することも容易いはずと思い不安を抱いていると、ぱっと見はナマコに見えるが裏返すと人の顔がついている“じんぼちょう”や、人間の形をした身体のあらゆるところから際限なくイカが生えている“おちんぎん”がいてもおかしくはないという妄想に囚われ始めた。これは良くないとイヤホンを耳に装着、なんとなく“おなりもん”の対極にあるのではないかとBeverly Hills Copの主題歌を再生した。

 Beverly Hills Copの主題歌Axel Fの効果があってか、その後は魑魅魍魎に惑わされることはなく、エディマーフィーの名演に感謝した。高田馬場のバーガーキングに寄り、ワッパーとジンジャーエール食べて腹を満たして、面接に挑んだ。人員大量募集みたいなので落ちることもなさそうで、ひとまず働き口が見つかったような安心感と1時間半の通勤の憂鬱で気が狂いそうであった。山の中を静かに流れる清流のような気持ちで日々過ごしていたところへ急に大都会に出たら人の気にあてられて参ってしまったので、かろうじてカバー範囲である代々木まで歩いてコーヒーを2杯しばいて帰りの電車に乗った。

 駅からZIKKAまでの帰路、なんか匂うな、くらいの肥料の匂いのする、東京にも田舎にもなりきれない絶妙な風景の大通りを歩く。このどっちつかずな立地と空気を故郷と思うにはまだしばらくかかりそうであるが、荒涼としたビル街からの帰りであればこそ、少しの愛着が湧きそうである。
 そんなことを考えながら歩いていると、少し先の、歩道に面した農地に向かって屈んでいる人影。近くを通ると何かを探しているようだったので「どうしたんすか?」と尋ねるも、後ろを振り返らない。そして僕に背を向けたまま答える。
「墨汁嚢を落としたみたいで…」
墨汁嚢とはタコやイカの類にそなわる袋状の器官のことで、文字通り墨汁を蓄えている。
 墨汁を落とすことはあるかもしれないが、墨汁嚢を落とす人間はあまりいない。墨汁嚢を落とすのは決まってタコかイカなどの頭足類の軟体動物というのは明白である。僕の目の前で屈んでいるヤツは十中八九、タコ人間あらため“おなりもん”だ。まだこいつは屈んでいるので正体を暴かずに逃げるのが賢明だろう。しかし禁止されるほどやってみたくなる、見てみたくなるという心理現象があるという。すなわちカリギュラ効果。
 次の瞬間、僕は腕を伸ばしていた。屈んでいるヤツの肩を掴んで対角に引いて振り返らせていた。そして目があったが最後、頭部に生えた8本の足が波のように押し寄せ、1600もあるとされる吸盤に吸いつかれ、気づいた頃にはもう遅く、僕は“おなりもん”となっていたのであった。

 これからは、おなりもんとして悠々自適な暮らしをしていこうと思う。ヒトの頭があった場所には8本足のタコが据えられており、股には豆もやしをぶら下げている。首の上に据えられたタコからは常にムチンという粘り気のある成分が出ているため服を着てもすぐに汚してしまい、地面スレスレまで垂れている豆もやしは到底ズボンの中にしまえそうもなく、おなりもんが裸でいるのにはそれなりの理由があるのだと気がついた。それ以外の生活はむしろ単純化されて生きやすいくらいだ。股から生えた豆もやしを擦り人間を脅かすことがこれまでの労働に取って代わられ、腹が減ることもないので、図らずも資本主義からの脱却をすることができた。おなりもんどうしでの縦横の繋がりもないため不和やわだかまりがあるはずもない。朝起きて、豆もやしを擦り、人間を脅かし、眠る。そうして日々を薙ぎ倒していくのだ。

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