個性を伸ばす教育が大事、というけれど
今日は、個性を伸ばす教育について書いてみたいと思います。
私の親は両親とも教師でした。母が小学校教師、父が中学校教師でした。
ですから、学校から帰っても先生がいるわけです。小学校のときは泣きながら勉強させられたこともあります。別に何かがとてもつらいということもなく、単に勉強するのが嫌で泣きながらやっていたりしました。
ところが、それを父親が見つけて、母に対して、どんな教え方してるんだ、泣いとるやないか、と怒って暴力をふるったりすることがありました。
私としては、いや、僕が勝手に泣いてるだけで母は何も悪くない、といいたいところでしたが、父親が怖くて言えませんでした。
つまり、小学校、中学校と勉強という型にはめられた教育でした。自由があまりなかったです。他の子たちが遅くまで外で遊んでいても、私は家で宿題を無理やりやらされることもありました。
そして、自分もその型にはまった人生、つまり、きちんと勉強していい成績を取って、先生のいうことは聞いて、宿題も忘れず、きちんとやる、血液型AA型のような生き方でした。いつも周りの人のことを気にして、本当に好きなようにはできない性格でした。
息がつまるような、楽しいことのない家庭でした。親戚には、うるおいのない家庭、と言われたこともあります。
私はそれがいやでいやでたまりませんでした。もっと自由に好きなように生きたい、と心の中では思っていながら、ハメを外すことができず、暴走族が好き勝手をしているとしたら、原付でとろとろとあとを追いかけるようなことしかできませんでした。
そういう厳しい親だったので、地頭力は上がったと思います。勉強すれば、知能指数は上がりますから。そして、あるノウハウに気づいたこともあって、志望の大学にも合格しました。
その後社会人になって、結婚して子供が生まれました。
私が子供の頃につらい体験をしたので、子供には何の制限もつけずに好きなようにやらせてやりたい、と思って、勝手気ままに育ててみました。
何か悪いことをしてもあまり叱らず、たいていのことは好きなようにやらせていました。
何かをやりたい、と言えば、好きなだけ好きなようにやらせていました。そうすれば、何のストレスも感じず、後悔もない人生が送れるのではないか、と考えたからです。
それというのも、私は、中学の時に卓球部に入っていて、とても卓球が好きで楽しかったのですが、父親から、高校に入ったら、卓球を止めろ、と高圧的にいわれてメチャメチャ腹が立ちました。
勉強ばかりの生活の中で卓球だけが唯一の息抜きの場でしたから。それで父をすごく恨むようになったので、自分の息子には、できる限りやりたいことを自由にやらせたい、と考えました。全部自分で選んで好きなことをやれれば文句はないだろう、と。
そうやって、何の制限も設けず、好きなようにやらせたのですが、結果は、私の思うようにはなりませんでした。
例えば、ゲームが好き、というのでゲームも好きなだけやらせたのですが、特にゲームの大会で勝つわけでもなく、単なる遊び好きな子供になっただけでした。ゲームを好きなら徹底的にやらせて、大会で優勝できるくらいになるには、自己流で好きなようにやらせるだけでは、自動的にそういうレベルには到達しないようです。
好きこそものの上手なれ、という言いますが、例えば、マンガが好きだから、といつもマンガを好きなだけ読んでいれば、漫画家として成功できるか?といえばそうでないのと似ていると思います。
スポーツでも、純粋に勝敗抜きで楽しむやり方で、自己流でいくら楽しんでも、優勝できる力はつかないでしょう。勝つためには、それなりの専門家に教わって厳しい練習をする必要があります。
好きなだけでは職業にできないこともよくあります。ミュージシャンなんかその最たるものでしょう。
また、好きなことが本当にその子供の才能を開花させることにつながるか?は必ずしもそうでもないのかな?という気がしています。好きと得意が一致するとは限りません。身長の低い子がバスケットボールが好きだからといってやらせても一流選手になることは非常に難しいでしょう。
つまり、全く型にはめずに子供の好きなようにやらせたとしても、個性を伸ばして、何か特技を持った一芸に秀でた人間に自動的になる、というわけでは無さそうです。
一芸に秀でるように育てるには、イチローの父のように、一つの道を究めるように仕向ける必要があるのではないかと思います。もちろん、子供の適性も見ながら、この子にはこれが一番向いている、と判断したうえでやるのがよいです。
向いてないのに、野球をやらされて、途中で才能がないことに気づいて挫折するような子供もいます。高校位まで野球一筋にやってきて、高校で才能がない、とわかったら、その後の人生設計的にどうかな?と思います。
逆に子供にすごい才能があるのに、それを好き勝手に放置することで、天才を十分に引き出せないとしたら、人類に対する損失です。
そういう意味からいえば、子供の個性を伸ばす教育とは、全く放任して好き放題にやらせる、というのではなくて、親なり、教師なりが、その子供の適性に応じて、その子が楽しみながら成功できるような方向に誘導することではないか?と思います。それも若いうちに。
スポーツでも、若年化が進んでいます。卓球の愛ちゃんも3歳から卓球をやっていたはずです。そして、今は、そうした子供の頃からやっていないと勝てないスポーツも多いです。
そういう意味で、子供の個性を伸ばすには、子供の才能を見出して、その才能を思いっきり伸ばす教育をするのが、個性を伸ばす教育ではないでしょうか?
決して、子供に好き勝手させる、という方向感のない放任主義ではなく、ある意味、戦略的に、その子の持つ一番いい才能を引き出す教育こそ個性を引き出す教育と言えるのではないでしょうか?
そのためには、子供の才能を見分ける目利きが必要になります。もっといえば、好きで得意な才能を見出すのが理想的です。
教える人はどうあるべきか、と考えるとき、私がいつも思い出すのは、卓球の県チャンピオンの指導と、世界チャンピオンの指導の違いです。
卓球の県チャンピオンは、卓球雑誌に書いてあるようなことを画一的に教えるだけです。生徒毎の個性も何も関係なく、こうラケットを握って、こう打つんだ、と1種類の方法しか教えられません。
しかしながら、世界チャンピオンは世界中でいろんなタイプの選手と対戦しているので、いろんな打ち方やフォーム、プレースタイルがあることを知っています。一見ダメなフォームに見えても、それで欧州で上位に入る選手を知っていたりするのです。セオリーには合ってなくでも変則打法で成功する選手も実際にいます。
ですから、世界チャンピオンレベルになると、一つの型にはめるようなことはしません。選手のタイプごとに柔軟に最も適した打ち方やフォームを教えます。これはある意味、経験の違いとも言えます。
これは、先生にも言えて、たった1つの選択肢、つまり、いい高校、いい大学、いい会社に入るのが一番いい、とそれを皆に押し付ける先生もいれば、生徒毎に才能を見つけて最も適した進路を指導する先生もいるように思います。海外ではそういうのが得意な先生もいそうな気がします。
そういう広く世界を知り、多様な可能性を引き出すことのできる指導者がどれだけいるかはわかりませんが、いろんな生き方、個性の活かし方があることを知ることは大事だと思います。
そして、いろんなオプションがあるからこそ、その子に最もあった才能の伸ばし方をしてやれるのだと思います。
だとすれば、子供の個性を伸ばすには、教師は、単純に幼稚園や小学校、中学校の教師とだけ付き合っていたら足りる、というわけではありません。
youtuber、サイトアフィリエイター、転売、漫画家、小説家、不動産経営者、ベンチャー経営者、職人、医師、芸術家などいろんな人生の実態を知ったうえで、子供の一番向いている才能を引き出すことができることが、個性を伸ばす教育と言えるのではないでしょうか?
私は、親が教師だったので、いろいろ学校教育の会誌等で勉強していることは知っていました。努力していろいろ研究することは立派だと思います。しかし、その学校教育という狭い教師の世界の中だけで語られる教育では、本当の意味で子供の個性を伸ばす教育ができるかは疑問です。
厳しい言い方をすれば、東大に入ったことのない中学教師同士でどうやったら東大に入れられるか?を議論しても、想像でしかなく、東大に入れることは難しい場合もある、ということです。そういう場合は、教師仲間と話すより、東大生を呼んで直接話を聞く方がずっと早いし、正確な情報が得られます。
そういう意味で、親や、教師は狭い世界に閉じこもるのではなく、できる限りいろんな世界の人とリアルに交流し、いろんな生き方の可能性があることを知れば知るほど、個々の子供に合った個性を伸ばす教育がやりやすくなるように思います。
まとめると、教える側(育てる側)が、人間の幅を広げることが、真に個性的な教育を可能にするのではないか、と思うのです。個性を伸ばす教育をするためには、教える側も常に自分の視野を広げる努力が必要でしょう。