カダケスの手前で見たもの
何に惹かれているのかはわからないけれど、古い建物が好きである
専門家ではないので詳しいことは知らないが、東京という都市は、度重なる震災や戦災で、築100年以上の建築にお目にかかることは難しい気がしている。
とはいえ、住宅街の中に見つける洋館チックな、周囲よりも敷地面積の広い邸宅、つまりは戦前に分譲されて、建物自体もそのまま竣工当時の面影を色濃く残しているような個人宅を見かけた時や、繁華街に残る特徴的なビルヂングに当たりをつけて、実際に調べてみると、戦前の建築だということがわかったりした暁には、一人、心のうちで悦に入るものである。
原体験があるのかどうかはわからないし、上述の事象と同じ心情なのかは自分でもよくわからないが、遡ること小学生の頃、よく母の郷里に帰省すると、誰とはなしに、親戚に連れられてドライブのお供をよくすることが、しばしばあった。
東京で電車移動の生活環境で育った私からすると、車に乗って、山奥を抜けたり、海沿いを走る道路を走ること自体、珍しい経験だったのだが、
時折見かける、屋根が落ちて崩れ始めたような木造家屋を見かけると、ついついじっと見てしまうことには非常に自覚的であった。
旅先のスペインでも似たような経験がある。
ダリの劇場美術館から、カダケスに向かうバスの車窓から見た景色である。
友人と二人、滞在先のバルセロナからの日帰りノープラン遠足で、友人と、フィゲレスの劇場美術館では物足りない気がする、となり、その場のノリでカダケスに向かうことを決めた。
カダケスは海と山に囲まれた港町であるがゆえ、バスが出発して程なくすると、硬そうな地盤の見える山道をグイグイ上りながら進んでいく。
同行の友人はぐっすり眠り込んでいる中、私は、右手に海を、左手に湿度の低い緑を見ながらぼんやりとしていた。
やがて、ある程度標高が上がってくると、右手側の視界から海が消え、崖っぽくなり、視界の上に広くすこんと抜けた空の下、両側に、日本ではまずにお目にかかれないであろう緑色と土の色ばかりが広がって、グネグネと順繰りに左右に繰り返されるカーブを進むだけのこちらの視界の後ろに流れていく。
左手側には、時折、石が積まれた基礎部分らしき区画があることに気づく。
どれも基礎部分らしきものを残すばかりで、建物があったかどうかは定かではないが、明らかにその場所に、点々と人工物があった。
当地の歴史には全く詳しくないが、もしかしたら一昔前は、農業用地、または街道であり、民家や、倉庫のような役割を担った建物があったのかしらん、などとひとりごちていた。
山道を抜け切って到着したカダケスの町でみた海の素晴らしさのおかげで、山道で見ていたものはしばらく自分の中では忘れさられていたのだが、今改めて思い返してみても、整備されているとはいえ、歩道もない山道である。
自動車の流通する以前に当地を行き来していた人間の営みをいうものについて思いを馳せてしまった。
人が住まなくなった住居というのは、もしかしたら、私の中に美術館、というより、歴史博物館に所蔵されている物品を見た時と似たような感情を湧き起こさせるのかもしれない。
物理的な人工物を見つめながら、それを製作した人間は、もうこの世にいないだろうという確信がある時に感じる気持ちである。
徒歩で歩く人もない山道と、背景の海や空の色と相まって忘れられない、少し時空を超えたような気のした思い出である。