sexistとの対話の必要性
ハフィントンポスト日本版が、フェミニズムに関する西村博之さんのインタビュー記事を掲載したことに関して、ハフィントンポスト日本版及びインタビュワーの髙崎さんがフェミニストの方々から強い非難を受けています。
要するに、一口に「フェミニスト」と言っても男女平等を目指す人と男性を差別意思対比とが混在しているけど、男性は後者には乗れないので、前者を目指す人たちは、「フェミニズム」という言葉を使わない方が世間の理解を得られやすいと西村さんが言ったところ、これに多くのフェミニストが激怒したということのようです。
自分たちと異なる考えを有している人はsexistであり、そのような人間の理解を得る必要もなければ、対話をする必要もない──したがって、そのような人物の見解を流したハフィントンポスト日本版や、西村さんをその場で論駁せずにその話を引き出すことに終始した髙崎さんは許せないというのが、基本的な考えのようです。しかし、そうなんでしょうか。
日本国憲法は、いかなる考えをもつことも自由であることを規定し(19条)、公共の福祉に反しない限り自由に幸福を追求することができ(13条)、公共の福祉に反しない限り自由に表現活動を行うことができます(21条)。この「公共の福祉」による人権制限は、他者の基本的人権と衝突するときの調整のために初めて許されるとするのが通説的な考え方です。
だから、誰かが、「あいつのあの言動は許せない」と考えても、それだけでは「あいつのあの言動」を強制的に止めさせることはできません。日本国憲法は、誰にも、そんな特権的な地位を認めていないからです。だから、その種の言動を止めさせようと思ったら、その種の言動が倫理的に許されないものであると納得させることが必要となります。そして、そのためには通常対話が必要となります。
もちろん、例外はあります。その言動が自分の基本的人権や、制定法上の権利を侵害する場合です。自分のプライバシー権を侵害する言動や名誉を毀損する言動については裁判制度を利用して強制的に止めさせることができます。また、通常人の感性を基準とした場合に受忍すべき限度を超えて精神的苦痛を与えるような言動については、人格権が違法に侵害されているとして、強制的に止めさせることができる場合があります。ある種のヘイトスピーチについては、ターゲットとされた集団の構成員の人格権が侵害されたとして、これを強制的に止めさせる余地があるでしょう。
しかし、西村さんの上記インタビュー記事の中に、誰かの自分の基本的人権や、制定法上の権利を侵害するようなものがあったかというと疑問です。自分の見解、イデオロギーと相容れない発言がメディアで取り上げられ、流布されたことにより精神的な苦痛を感じた人がいたとしても、自分と異なる見解の持ち主にも等しく表現の自由が保障される日本においては、その精神的な苦痛は、通常人の感性を基準とした場合に受忍すべき限度を超えたものとはならないからです。
それは、あいちトリエンナーレ2019において、平和の少女象が展示されたことにより、大日本帝国ないしその軍隊の無謬性が毀損されたことにより精神的苦痛を被った人がいたとしても、自分と異なる見解の持ち主にも等しく表現の自由が保障される日本においては、その精神的な苦痛は、通常人の感性を基準とした場合に受忍すべき限度を超えたものとはならないのと同じ理屈です。
自分以外の女性が専業主婦になろうと、そしてそれを幸せだと感じたとしても、そしてその女性の子どもを含む男性がそれを見て幸福そうだと思おうと、顔がよければそういう人生を送ることができる女性を男性が羨んで見せようと、思想・良心の自由や幸福追求権が保障されている日本国憲法下では、それ自体は、偏差値の高い大学を出て、世間的な評価の高い仕事に就いている女性の人格権を違法に侵害するものとはならないのです。
一部のフェミニストの方々は、何が「フェミニズム」かを、自分を含む一部の女性たちだけで決めて、それ以外の人は、そこで決められた「フェミニズム」にただ従うべきだと考えているようですが、それは日本国憲法とは相容れない考え方なのです。