【感想②】人間主義的教育の系譜(近代初期)
(2024年3月、追記)
勉強不足が露呈し、内容について自ら疑義が生じたためコメントを追加した(※の部分)。
いっそのこと記事を削除しようかとも思ったが、勉強の足跡という意味で残しておこう。よりしっくりくる、より包括的な内容の文章が書けるまでの間は…
ヒューマニティーズ 教育学
広田照幸 (2009)
人文学一般において、歴史は重要だ。いや、その全てと言っていいかもしれない。
子どもの頃から歴史が大の苦手であり嫌いだった私は、こうして大人になり、かつての自分の愚かさと浅はかさに後悔する毎日である。
教育学を探求するためには、教育学の歴史を知る――しかも詳しく、深く、多角的に――ことが必要である。いや、何なら教育学探求の基本かつ王道はそれだろう。教育学の歴史を深く学ぶためには、当然、教育学以外の一般的な世界史と日本史を学ばなくちゃいけない。一つの過去の事物を理解するためには、当時の社会的・歴史的背景を知る必要があるからだ。
最近、自分自身そんな意識をようやく直視し始めたのかどうかわからないが、私のマイブームは歴史である。暇があったらコテンラジオを聞き、図書館で「まんが日本の歴史」を予約して読んでいる。(コテンラジオの深井さんについてはいつか誰かと話したい、または書いてみたい。)
歴史嫌いの私でも、教育史については 学部生の時に坂本辰朗先生の講義を聞き、村井実を読んで多少は勉強した(つもりだ)。しかし結局は出来の悪い学生で、何回読んでも聞いても理解できていない所が多い。本書は、そんな私にとって、とある「かゆい所に手が届く」ような感覚を得た。(やっと本書の話が始まる。)
教育史の中でいくつかある重要なポイントの一つは、いわゆる「人間主義的教育」※の系譜だと個人的には思う――多分に理念的・イデオロギー的な概念なので、人によってはそのような存在を認めないのもいるかもしれないが。重要とは思いつつ、しかし、人間主義的教育というのは理解が難しく、曖昧な理解で片づけてしまいがちだ。ここではその概念の詳しい話は置いておいて、私にとって本書がその理解にどう寄与したかを述べよう。ちなみに著者は人間主義的教育という言葉は使っていないので、ここでは著者とそれをつなげるものではない。
※「児童(子ども)中心教育」とでも言い換えておくべきか?理由は、ルソーの評価にあまり自信がないことと、マズローの人間主義心理学の影響を受けた教育と誤解される可能性があること。
そもそも人間主義的教育と子ども中心教育の異同について理解が浅すぎるのが問題だ。
人間主義的教育を乱暴にざっくり言うと、古くはソクラテス、時をあけてルソー※やペスタロッチ、近くはデューイなどが構想したり実践したりした、「教育の本質的目的をその外部に認めない」流派の一つで、(知識の注入と対比するものとして)人間性の陶冶(ってすごく曖昧だけど)を重視し、その理念の具体化や実践については教育者の中にあるサムシング(ってなんやねん)に頼る、みたいな教育思想のこと、だと思う。(ほら、やっぱり曖昧な理解だ)
※坂本先生によると、ルソーは人間主義ではなく理想主義(『人間の教育を求めて』p67)
私の無能さのせいもあるが、こんな調子で人間主義的教育というのは捉えるのが難しい概念だ。そのため、明らかな差異がある教育思想と並べると幾分か理解できた気になるが、その近接・周辺となると異同を分別するのがとても難しい。具体的には、コメニウスやヘルバルトを人間主義的教育の観点からどう評価するか、みたいなことだ。
ここら辺の話はつまり、(ソクラテスは置いといて)近代の人間主義的教育の萌芽についての理解ってことになる。本書では、この部分をとても完結かつわかり易く整理してくれている。
著者は、第3章「教育の成功と失敗」で、教育のテクノロジー・教授法の歴史を概観する。そこで、近代に起きたある潮流を、明らかなエポックとして取り出している。それは、ルソーを祖とし、コメニウス※をその萌芽とする「自然」を重視し「子どもの内面」に注目した教育観である。これが(一部で)人間主義的教育と呼ばれる教育観である。
※村井実によるとコメニウスは理想主義と現実主義(『教育思想 上』p144)
コメニウス、ルソー、ペスタロッチなんて言ったら教員採用試験の定番で、教員志望者は兎にも角にもその名前と関連するキーワードを暗記するという程に有名な人物である。なぜ彼らが試験に取り上げられるかというと、その理由は、これらの人たちが旧来の、押しつけ・機械的・抑圧的・権威的・虐待的(その他”子どもを大事にしてないっぽいイメージ”の諸々)な教育が一般的だった時代に、より 子どもの発達に即した、自然な形の、子どもの内面を重視する教育を標榜したからだ。
今の日本の教育言説には右派左派とイロイロあるが、流石に子どもに鞭打って無理やり学習させるような(つまり前近代的な)教育はだれもが否定するだろう。という意味で、上の人たちは現在の教育まで影響をあたえている、尊敬されている人物たちと言えるだろう。
さて、教員採用試験対策ならキーワードを覚えておけばいいけど、教育学探求というならやはりもっと解像度高く理解したい。ということで本書は、コメニウス、ルソー、ペスタロッチをこんな感じで総括する。
コメニウスは、有名な「世界図絵」に象徴されるように、それ以前までとは違い「子どもが理解し易い教授」という観点を初めて持ち出した。逆の言い方をすれば、それ以前は理解し易いかどうかなんて関係なく、とにかくアメと鞭で叩き込むという考えだったのだ。
コメニウスが「世界図絵」で絵や図を用いて事物を説明したのには、教育は子どもの発達(理解度)に合った教材を提示すべきという考えがあったからだ。今では考えられないが、コメニウス以前の教科書には図や挿絵は一切なく、すべて文字だったというから驚きだ。
しかし、著者曰く「コメニウスの議論には、子どもの本質や発達に関する視点が欠けていた。」さらに続けて、「それに対して、ルソーは、子どもの発達をいくつかの年齢段階に分け、その段階ごとに子どもの内的特質を注視し、それに応じた教育のあり方を具体的に論じた」(82)と言う。
つまり、コメニウスとルソーの違いは「子どもへの理解度の違い」と言えるだろう。コメニウスが、子どもの発達(理解度)を考慮した点は評価できるが、彼の子どもについての認識は せいぜい「まだ大人になっていないヒト」という程度だったのではないか。
それに対しルソーは、子どもを 大人とは質的に全く異なり、大人とは違う特性・内面を持った存在として捉えたのである。
次にルソーとペスタロッチの比較だが、これは一言で言えば、理念の探求者と実践者の違いである※。ルソーは、その有名な著作『エミール』が小説であるように、フィクションの世界で理想の教育を模索した。よって、どうしても 彼の教育論はフィクショナルであり、象徴的であり、理想的であった。ただし、それゆえに後続に多くのインスピレーションを与えたのである。
※坂本先生は、二人の決定的な違いは「よさ」の捉え方だとした(『人間の教育を求めて』p68)
対して、ペスタロッチは教育の実践者である。彼はルソーに深く心酔し、その理想――子どもの自然な発達に即した教育――を自らが設立した孤児院で実践した。ペスタロッチは実際の子どもを良く観察し、理念的な教育思想を実際の教授法に落とし込んだという点で評価できる。なぜなら、彼の実践が「近現代の学校教育のさまざまな理論や実践のスタートとなったといえるからである。」(84)
…と こんな感じで、本書はコメニウス、ルソー、ペスタロッチの教育史上における意義をわかりやすく整理してくれた。まぁ、もしかして、教育思想についてもっとガチで研究してる人からツッコミが来る可能性もあるが、私としては上のような説明でスッと腹落ちした気分である。
ただし 本書では、ヘルバルトにおける人間主義的教育の側面は触れられてなかった。この点はこれからの私の学習課題としたい。私の勘では、「教育的タクト」の概念を理解することが、ヘルバルトの人間主義的教育な要素を理解するヒントとなる気がしている。