ばあばとショパン
歌うことが大好きで家でよくカラオケをしていたばあば。
絵を描くのが好きで一緒に塗り絵をしたばあば。
食べることが大好きなばあば。
自分の気持ちを伝えるのが苦手で我慢して苦しそうなばあば。
私のピアノを聴くのも日本舞踊を見るのも好きだったばあば。
怒られて不貞腐れてしゃべれなくなったばあば。
誰よりも温かい笑顔を向けるかわいいばあば。
春のあったかい日に窓を開けて一緒にアイスを食べたばあば。
綺麗な顔で永遠に眠ったばあば。
いろんなばあばが私の中にはまだ生きていて家族の中で唯一味方をしてくれたひと。
でも記憶に強く残っているのは自分の悲しみと苦しみと怒りを出せず全身に毒が回っているばあば。会うといつも、毎回、苦しそうだった。
幼い4歳の私でもわかった、苦しい色。
だからいつもひっそりそばにいて優しくした。
ばあばだけど私が一番ばあばの苦しみを理解しているとずっと思っているし似ていると思った。
なんでみんな優しくしないのかと思った。
ばあばが何も言わないからみんな怒りをぶつけやすかったのかもしれない。
ずっと責めないでほしいと思っていた。
最近ずっとそのことを考えていて。
でもじゃあなんでそんなこと考え始めたかって
最近ずっと私の近くにばあばがいるから。
ずっと、ずっと、私の後ろとか髪を乾かしている時に隣を歩いたり
居るから。
いや、本当はいないのかもしれないね。でもいるんだよね、そこに確実に。
なんでだろうと思う。
会いたい気持ちが暴走しすぎたからなのか?
違う。
じゃあ何が理由になるのか。
その前に少しショパンの話を。
私は前にツイートで
『ショパンのピアノソナタ第3番の3楽章を聴くとばあばに会いたくなる』
みたいなツイートをしたと思う。
私はショパンが心底苦手で、前は大嫌いだった。
だっていつも過去を見てるから。ずっと振り返っているから。私は自分の過去を振り返りたくない。苦しいから。辛いから。
“過去“という言葉自体が私の中ではトラウマで厭なのだ。
だからショパンが嫌い。
ただ今は周りの人に恵まれていて、幸せだと感じるから勉強だと思って今年開催されたショパンコンクールを全部聴いた。大嫌いな作曲家の曲なのに、だ。
そこでずっとぐるぐるしていることがあって。
ショパンは確かに過去を見ているけど見ている“だけ“ではなくてどれだけ過去の自分から逃げてもずっと過去は私を追ってくる、それも執拗に。絶対逃さない、という意志を持って。と感じる曲がままある。(と思う、私は)
ショパンは過去と向き合う曲なんだ、過去をくよくよ見つめているわけではなく、と感じた。絶対に過去を今の私から離さないからこそ、逃げずに過去に向き合う必要もあるのだと。
話だいぶ遠回りしたけど、ばあばが私の近くにいる理由って、私はばあばの苦しみを自分の中で解放できてなかったからなのかな、って。ずっと重ねていて似ているからこれ以上幸せになるのはだめ、って自分が自分にいい聞かせているからなのかなって。
ばあばが亡くなってから味方が世界から消えてしまったみたいで私の中の苦しみは加速して、自分から苦しさの中へどんどん突き進んでいって。
今幸せで環境が良くなってきているからこそばあばが近くにいる。
でもそれは幸せにならないで、の意味で近くにいるわけじゃなくて。
私が我慢していて苦しいからこそ近くにいるんだと思う。
だからこそ私はあの苦しそうなばあばを自分の中で解放しなきゃいけない。私がばあばに重ねて幸せになることを我慢しないように。
ピアノソナタ第3番の3楽章、過去と向き合い、苦しみや悲しみが少し残る足を引きずりながら少しずつ前へ進もうとする曲。ばあばと今の私のための曲だと思った。
たくさんのかすみ草を持って、ばあばと一緒にソナタ聴こうかな。
ああ、ずっとそばにいてくれたらいいのにな。
温かさが恋しい。
これを読んだ人の中の苦しさも解放されますように。