見出し画像

【031】コネクティング・ドッツを感じたので一次元的動きは控えようと思った

こんにちは。300カモです。
1日1記事投稿を続けてみて気づいたのは(投稿時間はバラバラですが)
その日感情が動いた体験を起点にしたらネタに困らないということです。

今日は最近関わらせていただいているエドテックEducation Tech)分野のスタートアップ代表の方とお話していて
コネクティング・ドッツを感じたので記事にします。

コネクティング・ドッツとは


言わずとしれたコネクティング・ドッツ。
ジョブズがスタンフォード大卒業式で行ったスピーチで出たお話です。

いろんな和訳がありますがこちらが読みやすいです。

このスピーチから得られる教えは,
要するに「ジョブズが興味本位で受けたカリグラフの講義(点)がMacのフォント開発(点)に活きたように,目的的でない行動や経験が他の思わぬ場面で活きることがあるから,点は増やしておくのが望ましい。」ということです。

点と点をつなげる、ということです。

私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。
(中略)
それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。

もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。

繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

日本経済新聞「『ハングリーであれ。愚か者であれ』ジョブズ氏スピーチ全訳
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO35455660Y1A001C1000000/

親族内での揉めた経験

あまり詳しくは書けないですが,
僕は近年親族間で少し揉めて,その一因は,
相手方となったその方が教育現場で精神的に参ってしまったことでした。

教員として勤めていた彼女は,職場環境や待遇を含めた労働条件など複層的な問題はあると思いますが,生徒や保護者対応で疲れたことが原因で鬱になりました。

正直僕は理解力も寄り添い力もなく,「頑張ってね」みたいな心無い言葉もかけたことがありました。
結局(たぶん)鬱抜けしたのだと思いますが,僕としても当時の話し合いなどを考えると暗い経験です。

それが先日,
社長から「教員が生徒側から受けるカスタマーハラスメントについて」というテーマで熱くお話をいただいた際,
私もとっさに反応しました。「身内で経験あります」と。

すると社長も「本当ですか,その分野の顧問的立場の方とミーティングさせてください」ということで,
本日,3人で教員が受けるカスハラの話をしました。
非常に興味深く,弁護士が果たす役割もありそうで,
単純にお役に立てる気がしています。

過去の経験がなければおそらくここまでの話になっていないと思いますので,まさにコネクティング・ドッツを感じました。
こんな経験したくてもできないですし(したくもないですが笑)。

目的的すぎるのも考えもの

僕の頭にある固い意識の1つに「目的的に行動する」があります。
何をするにも目的(厳密な意味での目標も含みます)から逆算して行動すべき,という考え方です。

先の教員のカスハラ体験は別として,
自身でその行動をするか否かを決める場合では,「これやって何の意味があるかな?」と癖で考えてしまいます。

たとえば,最近は新しい人脈の方とお繋ぎいただくとき
「この方と会って何になるかな?」とか大変失礼ながら考えてしまっていました。
特に生命保険の方とお繋ぎいただく場合。
猛反省です。

BNIでもよく言われますが,その方の先にどんな人脈があるかわからない。
まさにこれこそ「ドッツ」を作りにいく姿勢です。

目的的に考えすぎると,直線的なドッツはつながるかもしれないけど,思わぬ方向の発展がない。悪い意味で一次元的発展しかありません。

ドッツを広げていったら,線ではなく面で広がって,
思わぬ二次元的発展の可能性がある。
僕がいま広告法務に注力しているのだって,目的なしにお話させていただいたWebデザイナーの方からの「このLPリーガルチェックしてよ」的な話からでした。
あ,ここにニーズがあるのか。と気づいたのです。

僕は目的的読書とかすぐ言いますが,
渉猟的にいろんな知識や体験をしないとなーと改めて思いました。

ただし時間の使い方の問題もあるので,
目的はもちつつ,あまりそれに囚われないバランス感覚を持ちたいと思った1日でした。

31日目ステータス

じょうたい つらい → まがお
なかま +1

新たな刺激で仲間が増えた感覚です!




いいなと思ったら応援しよう!