41「私」と「他人」、「私」と「他人どおし」
もうずいぶん前に読んだ「人間の関係」という五木寛之さんの本によって、その後は自分の考えを変えたままずーっと暮らしています。具体的に何が書いてあったかは覚えてないので、読書感想文ではなく変わってしまった考え方を述べます。一般的な表現の「人間関係」ではなく、この本に表現されている「人間の関係」です。
まず数字の計算をします。
家族であれ、仲間であれ、自分を含む4人の集団があるとします。私と他人をそれぞれ線で結ぶと3本の線になります。でも誰かと誰かの関係になるとそれは、6本の線です。端的に言えば「人間の関係」は倍になります。もしこれが5人の集団ならば私と他人は4本の線で、誰かと誰かだと10本の線です。実際に私の子どもが2人から3人に増えた時に、コミュニケーションは単純に6通りから10通りに急増しました。
数学でいうところの組合せだと、5つの中から2つを選ぶと10通り。さらに5つの中から3つを選ぶと10通り。5つの中から4つを選ぶと5通り。5つ全部を選ぶのが1通りなので、合計26通りのコミュニティが発生することになります。「人間の関係」とは、その26のコミュニティに意識を向けるという考え方です。
でもこの数字だけの話では、面白さはイマイチだと思います。♪ ぽっぽっぽ、はとぽっぽ、みんなで仲良く食べに来い ♪ を思い出します。学校の道徳の授業や、職場の研修みたいです。
そこで五木さんの本を読んで気が付いた自分の考え方を述べます。職場の新入社員の研修でお話したこともあります。
まず我が家の場合、つれあい、長女、次女、長男との家族5人のことを大切にしたいと思ったら。例えば、つれあいのことを大切にすることもさることながら「彼女と3人の子どもとの関係」を大切にするということです。
さらに面白くて大切なのは、つれあい、長女、次女、長男、「4人それぞれ個々のこと」を大切にすることもさることながら、自分と彼らの間に存在する「関係のこと」を大切にするほうに考えをずらしてみるということです。
キリスト教でいう「汝の隣人を愛せよ」の「愛」を、「見直すように」とお寺で聞いたことがあります。「愛」は見返りを求めたくなる「欲」に繋がるというわけです。そんな言い方はキリスト教に失礼だと思った気持ちは今も変わりませんが、ただお寺で聞いた「無償の愛」という表現、「慈悲のこころ」という表現は確かに俗にいう愛よりも、レベルが高いと考えられます。もし自分が相手に愛を感じた時に、ひと呼吸して自分と相手の間に存在する「関係のこと」に考えをずらしてみると、見返りを求めることよりも育む責任感に意識が傾いて、結果として強い関係が得られると思うのです。
家族だけではなく友人や会社の仲間との関係も含め、実際にこの「ずらし」を意識し始めたことで自分の発言や振る舞いが変わらざるを得なくなり、結果としてコミュニティにおいて過去と違う結果が出始めた実感を持っています。そして、どことなく幸わせ感においても微妙な変化を感じます。
キリスト教会の讃美歌でも「いつくしみふかき母なるイエス」と歌います。細かい教義を論じられませんが見返りは求められていないはずです。
ただひとつ付け加えたいことがあります。恋愛における「恋」は、「ずらし」を意識などせず一途に
つきすすむべきと思います。というか、だから「恋」だと思います。それが深まり「愛」に行きついた後に「ちょっとずらしたらどうか」といま思うのですが、これは家庭を持って忙しくやってきた結果のあとづけの考えの変化であります。