26 何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいく
昨日の見出し写真の図を再掲しました。誰かの願いの中で生まれきて、誰かの願いの中で死んでいくと対(つい)にして考えることは、何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくということです。
仕事柄、終活だとかエンディングという言葉に触れる機会がよくありました。というよりもどっぷりと身を置いて暮らしていました。
終活というキーワードで語られる内容は、高齢者がもし自分がこの世を去るとしたら「残していく家族に迷惑をかけないように何をどう遺すか、また逆に何をどう処分するかを整理しましょう」そのために今持っているものを消費財メーカーや流通業みたいに「棚卸(たなおろし)しましょう」というものです。
預金・不動産などの財産や、あげてきた成果、人間関係などなどを整理して、その締めくくりにお墓やお葬式をどうして欲しいかの希望を記すことが主な内容です。この分野にカウンセラーとかコンサルタントと名乗る方々がお出ましになりました。
自分自身も既に20年ほど前にエンディングノートの先駆けと言われる大学の准教授の講義を聞かせてもらった時「エンディングノートを書いた人が元気になる」という思いがけない言葉を聞いて以来、何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくという視点での興味は持ち続けています。
いずれ書ますが、断捨離という言葉も面白いと思います。ダン!と見切りをつけて、シャリ!っとスリムになる様な感じもいいもんだと思います。特に高齢者の場合は、ダン!、シャリ!のあとは本当に必要なものだけを持って生きるというのも、昨年会社勤めをリタイアした後に自分自身も実践し、心地よさは感じています。
ただ、誰かの願いの中で生まれきて、誰かの願いの中で死んでいくということとは、次元が違います。何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくとう曲線は一生の時間軸を横に取ると放物線を描きます。それに対して誰かの願いの中で生まれきて、誰かの願いの中で死んでいくという曲線は、縦軸が逆の位相になります。
生まれてきたゼロ歳の時。私はすこぶる純粋無垢であったに違いないと思います。しかし物ごころがついて、持ち物も増えてくるにしたがって、誰かの願いを忘れていく。そして人生なかばになってわが身をふり返ると、持ち物と欲望がMAXになっているのに気づく。それをふたたび純粋無垢な姿になって、生を終えていく。・・・こんな感じです。
私のよき師である先輩は、終活ではなく宗活がほんとうに取組むべき営みであろうと諭してくださいました。その後、師とご一緒させていただいた団体の活動目的を「宗活」と呼ぶことにいたしました。