23 大仏っあん
大自然と呼ぶのがいいのか大宇宙と言ったほうがいいのか、それを超える言葉を知らないので残念なのですが、いわゆる無限大の空間と無限から始まる時間を含むいっさいの次元。そこにこのわたしを今ここに置いてくれている、言葉にできないはたらき。
それを運命とよんでも宿命とよんでも尺度が物足りない、言葉にできないはたらき。それに気づいた人が気づいた事実を伝えたくて、形にしたくて東大寺の大仏を作ったと聞いたことがあります。(見出しの写真は若草山から見た東大寺です)
わたしが最も多く触れるお坊さんの話においては、ほとけさまの中で一番大きなはたらきを持つのが阿弥陀さんで、しかもすぐに動けるように立っている阿弥陀さんということになっています。それを聞き慣れている自分にとってはそれはそれでいいのですが、全ての人にとっていいのかというと疑問が残ります。
はたらきの大きさをギリギリに建造可能な物理的大きさで作られたのが東大寺の大仏だったと聞くと、座っていることを立っているより動きが悪いと決めてしまうのは作った方に失礼だと思わざるを得ません。これは教義をないがしろにする話ではなく、大きいことを物理的な大きさでしめしたくてしかたがなかった方のお気持ちに共感するがゆえのわたしの考えです。
またもし時の政権とか帝(ミカド)が、政(まつりごと)を行う上でギリギリまで大きくしたと説明する方がおられるとしても、論点はそこではないと思います。なんだか「朝ごはん食べた?」と聞かれて「食べてない!」と言って実はパンを食べていたような話のように聞こえます。
とにかく、無限大の言葉にできないはたらきに気付き、逆に自分は0(ゼロ)と対極に置くことで自分の存在を見つめなおし、しかもだからこそここに居る存在そのものを強く肯定するために、東大寺の大仏が作られたと思い教会出来れば、まず初めに頭(こうべ)を垂れることしかないと思います。
余談かもしれませんが、鎌倉の大仏さんは中に入られるわけで、その時にどういう思いを描くかはそのひとの宗教的感性によって左右されるでしょう。寺社仏閣巡りを観光と割り切ることは、そういう意味では少しもったいないと思います。