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小川国夫(1927〜2008)はこんな良い

はじめに行為があった。わたくしには、それが小川国夫の文学の、そしてまた彼自身の生き方の、基本的な様式であるように思われる。彼は自分の行為について、ことさらに理論的な武装を試みることがない。しかもその武装を試みないのは、他者に対してだけではなくて、自分に対してなのである。自分が行った行動の動機づけは、あとからやってくる。なぜ自分はあのような行動を取ったのだろうか。そういう問いかけが繰り返しなされ、それに答えようとすることで、徐々に動機を発見していく。

利沢行夫「光と翳りの季節 ー小川国夫の世界ー」


文体


小川国夫はカトリックである。20歳のときに、洗礼も受けており、洗礼名はアウグスチノである。

彼は基督者として、若年の頃から聖書に親しんでおり、よって、小川国夫の文体の母体は聖書から来ているのだと私は予想している。ここで聖書の一節をひいたあと、小川国夫の文体を立て続けに並べ、紹介してみる。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

聖書「創世記」

市は山の中腹に建てられていて、牢は市の上の外れにあった。その日も、夜が明ける前に、驢馬の鳴き声があちこちに起った。彼は独房に微光が来ると起きて、ゆかに指でなにか書いていた。
いつの間にか夜は明け放たれていた。兵隊が来た。そして、一人が、うずくまっている彼に
ー起て、といった。
彼が立ち上ると、兵隊は彼の足元にしゃがんだ。足枷をはめるのだ。はめ終ると、兵隊は剣を抜いて、彼の両足の親指の爪をはがした。その日の最初の血が流れた。血は廊下の灰色の石の上では黒っぽかった。そして監獄の門のひなたでは赤かった。つめかけた群衆は静まった。
坂はそこから始っていた。刑場は谷底で、雛菊の谷と呼ばれていた。

アポロンの島「枯木」

オートバイがいたんでいた。それに道が悪かった。舗装は方々で切れていた。彼には、アスファルトの上からごろ石の上へ下りる時の感覚がいやだった。下りてからは、ハンドルをとられないように両腕を緊張させなければならなかった。スピードを落したが、後輪が石の間に入って、車は尻を振るようだった。
彼は腹がへっているのを思い出した。それは時々まぎれたが、しまいには意識しづめになって、どう仕様もなかった。
彼はオートバイを下りた。そして後輪の両脇のサックをあけて、中をかきまわして見た。知っていたがたしかめて見たのだった。食べるものも飲むものもなかった。

アポロンの島「重い疲れ」

バスを下りると案の定、停留所の外燈の下から、枝道を闇の中へ踏み込んで行くことになった。別荘風の家の鉄格子の塀を出はずれると、松に覆われた丘の窪みに、バスのテール・ランプが遠ざかって行くのが見えた。明日の朝まで、もうこの岬へはバスはやって来ない。暗い自然の中で夜を堪える予想に、浩は惹かれていた。

海からの光「地中海の漁港」

すると〈あの人〉は、私を待つようにとだけいってくれ、とおっしゃいました。どこでお待ちしたらいいのでしょう、と聞きますと、女よ、私はいつどこへでも行くことができる、ユニアは一つところに留まっていなくていい、私の言葉を思い起こしながら待っていればいい、とおっしゃったのです。
ー・・・・・・・。
ー主は私を証人に選んでくださったのだと思います。わたしは、今、見たまま聞いたままを申しました。
女は口を噤んだ。ユニアは、
ー言葉は光・・・キトーラによばれている・・・荒野へ行くな、と〈あの人〉の言葉を呟いた。

「或る聖書」

先生は陶器がほしかった、といった。しかし、一つも意を充たすものは無いようだった。先生は諦めて手の土を払ったり、そうかと思うと、また未練らしく土を掻き始めたりした。浩には陶器のことは解らなかったが、先生がなにか発見出来ればいいが、とは考えた。いずれにせよ発掘の作業は楽しかった。彼には楽しさの理由など要らなかったのだ。

海からの光「五十海」


小川国夫が描いたもの

彼の主題は主に二つに大別出来ると思う。

「浩もの」と「聖書の二次創作」だ。


浩もの


小川国夫の短編には柚木浩という青年が度々登場する。基本的に彼は小川国夫の分身であり、柚木浩を通して、小川国夫の故郷である静岡県藤枝市で過ごした幼少期の体験が語られたり、20代の頃に経験した、地中海やヨーロッパをヴェスパに乗って見て廻る、貧乏旅行の四方山話が語られる。そこでは商売女と寝たり、ヴェスパ(或いはオートバイ)が故障して小さな村に立ち寄ったり、各地に建設されている古い教会で休憩したり、金が無いから野宿したり、一時的な友情が育まれたりする。また、注意深く読んでいると、ここで彼は現地の人間に人種差別的な言葉をかけられたのではないか、と想像を巡らせるような描写がある。

オートバイは竜舌蘭の下に残っていた。彼は、車はまだ日を受けているのだな、と思った。彼はオートバイに乗って帰った。そして車を丁度椰子の陰になっている部分まで転して行って来てた。彼はそのわきに腰を下した。オートバイは黄色いほこりを一杯かぶっていた。それは彼に今日の行程の証拠になった。女と子供たちが小さく見えた。彼らは口をあいて、なにか一つのことを叫んでいた。彼は、いやなことはなし崩しになるだろう、と考えて、気を取り直そうとした。

アポロンの島「重い疲れ」

「女と子供たちが小さく見えた。彼らは口をあいて、なにか一つのことを叫んでいた」

引っかかる文章だ。後で読み返してみて、後続の文章との繋がりを考え、この文章を振り返ると、なにか一つのこととは「JAP」か「CHINO」だろうと考えた。又、ぶつ切りで恐縮ながら、「重い疲れ」というこの短編は作中の幾つかの描写から、恐らくスペイン語圏を舞台に書かれていると思うため、そうなると「CHINO」かな、と思う。

「彼はいやなことはなし崩しになるだろう、と考えて、気を取り直した」
旅をするということは、部外者、異邦人として自分を認識せざるを得ないということだ。この「いやなこと」は彼にとって初めての事ではないだろうし、最後でもないだろう。殊更に強調して書いてないのは特別なことではないからだ。

※「重い疲れ」は一人称がひたすら「彼」であるため、明確に柚木浩であるわけではない。しかし、彼の若い頃の旅行の記憶を潤色して小説に仕立てたことは明らかであろう。したがって「浩もの」に分類する。

浩は自分がヴェトナム人と思われているのを感じた。蔑称であるニャムニャムという小さな声が、スペイン人の口から漏れたような気がしたのだ。空耳かもしれなかった。彼は真鍮のパイプの柱を、爪で弾いて見た。

海からの光「地中海の漁港」

浩ものの作品

「アポロンの島」
「生のさ中に」
「地中海の漁港」
「彼の故郷」

上に挙げた初期短編集に数えられるものは柚木浩のことがたくさん書かれている。
これ以外の多くの短編集でも柚木浩に出逢うことが出来る。短編=浩もの、という理解は大きく間違ってはいない。勿論、それだけではないのだが。

※「アポロンの島」は小川国夫のなかで1番有名な作品といえるが、現在講談社文芸文庫からボッ◯クリ価格で販売されている。出来れば古本屋で、角川文庫のほうを手に取って欲しいのだが。。。



聖書の二次創作


小川国夫がカトリックであることは先にも書いた。しかし、彼は盲目的に神の存在を信じていたわけではない。よって彼の書く聖書作品は説教臭くないため、純粋にエンタメとして世界に入っていける、という特徴がある。
キリスト教文学としての色がより濃い遠藤周作より、宗教味が薄い小川国夫のほうが、信者のあいだではより人気があり、受け入れられた、というのはどこかのエッセイで読んだ話。
むしろ、宗教味というのは小川国夫の場合、物語の筋で表すのではなく、その独特な文体で醸すのだ。小川国夫の朴訥な語りは彼の描く原始キリスト教的な荒々しい世界観と相性が良い。

鍛冶屋は大鎌を火から出して、鉄床(かなとこ)の上へ乗せた。彼は一気に正確に、刃の厚い部分を尖へ送り、最後の形をつけた。透かして見ると平に殺げていた。鉄は十分に練れていた。手早くやったので鉄はまだ熱く、必要があればもっと叩くこともできた。しかし、もうその必要はなかった。彼は舟形の大鎌を油に入れた。油は鉄の上で弾み、玉になって踊ったが、引き揚げるとすぐになじんだ。刃には荒野の光が暗い虹になって映り、彼は吸いこまれるような眼をした。
ーユニアは今日も荒野は行きたいというだろうか、と鍛冶屋は呟いた。

或る聖書


「或る聖書」という長編小説は新約聖書のパラレルワールド、といっていいかもしれない。ナザレのイエス、即ちイエス・キリスト的な人物が《あの人》という登場人物として出て来る。物語の筋は新約聖書で描かれていることと似通っている。《あの人》は多数の信者を抱えており、その中の一人が密告をして裏切る。裏切られた《あの人》は磔刑に処せられる。

主人公ユニアは他の短編でも度々出て来るこの小説の主人公の、無垢な少年である。この無垢な少年は幼少期に聖書を読んで、憧れを抱いた小川国夫の似姿と言える。この世界に飛び込んでみたいという願望こそ二次創作モノでは1番大事なのだから。

このパラレルワールドの話は小川国夫の生涯の仕事となり、『枯木』、『アポロナスにて』、『海からの光』などの短編を描きながら断片的に埋められて行った。晩年に書かれた『イシュア記』や『ヨレハ記』はまさにその集大成といえる。


ーあの人はきれで顔をおさえて、しばらく立っていました。坂を下りるようにせきたてる鉄の玉の重みを、怺えていたんです・・・。きれを顔からはがすようにとると、フィロメナにかえしました。そして《生木でさえこの通りだ。枯木はどうなるのだろう》と呟いたのです
男は胸を突かれたように、なにもいわなかった。

〈中略〉

ーあの人が死んだことが信じられますか・・・ときいた。
ーそうだ、死んだとすれば、一遍生れかけた大きな物が、また土の下へかくれてしまったんだ、と男は唐突に大きい声でいった。
ーユニア、俺たちは死なないようにするんだ、と男はいった。
ーそうです、と少年は頷いた。そして
ーあの人は、鉄の玉に引ずられて倒れないように、一歩一歩、谷底へ下りて行きました、といった。

アポロンの島「枯木」



聖書を題材に作られた作品

「枯木」『アポロンの島』にある短編
「アポロナスにて」『生のさ中に』にある短編
「海からの光」『海からの光』にある短編
「或る聖書」
「王歌」※ダビデとゴリアテの話
「血と幻」※ユニアは出て来ず、より抽象的で夢幻的であり、暴力的である。
「ヨレハ記」
「イシュア記」


最後に

小川国夫は他に「試みの岸」や「青銅時代」などの上二つとはジャンルの異なる傑作も書いている。「遠つ海の物語」のような童話風の文体で書かれた優しい話もある。「漂泊視界」などのエッセイも良い。










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