文体
小川国夫はカトリックである。20歳のときに、洗礼も受けており、洗礼名はアウグスチノである。
彼は基督者として、若年の頃から聖書に親しんでおり、よって、小川国夫の文体の母体は聖書から来ているのだと私は予想している。ここで聖書の一節をひいたあと、小川国夫の文体を立て続けに並べ、紹介してみる。
小川国夫が描いたもの
彼の主題は主に二つに大別出来ると思う。
「浩もの」と「聖書の二次創作」だ。
浩もの
小川国夫の短編には柚木浩という青年が度々登場する。基本的に彼は小川国夫の分身であり、柚木浩を通して、小川国夫の故郷である静岡県藤枝市で過ごした幼少期の体験が語られたり、20代の頃に経験した、地中海やヨーロッパをヴェスパに乗って見て廻る、貧乏旅行の四方山話が語られる。そこでは商売女と寝たり、ヴェスパ(或いはオートバイ)が故障して小さな村に立ち寄ったり、各地に建設されている古い教会で休憩したり、金が無いから野宿したり、一時的な友情が育まれたりする。また、注意深く読んでいると、ここで彼は現地の人間に人種差別的な言葉をかけられたのではないか、と想像を巡らせるような描写がある。
「女と子供たちが小さく見えた。彼らは口をあいて、なにか一つのことを叫んでいた」
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引っかかる文章だ。後で読み返してみて、後続の文章との繋がりを考え、この文章を振り返ると、なにか一つのこととは「JAP」か「CHINO」だろうと考えた。又、ぶつ切りで恐縮ながら、「重い疲れ」というこの短編は作中の幾つかの描写から、恐らくスペイン語圏を舞台に書かれていると思うため、そうなると「CHINO」かな、と思う。
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「彼はいやなことはなし崩しになるだろう、と考えて、気を取り直した」
旅をするということは、部外者、異邦人として自分を認識せざるを得ないということだ。この「いやなこと」は彼にとって初めての事ではないだろうし、最後でもないだろう。殊更に強調して書いてないのは特別なことではないからだ。
※「重い疲れ」は一人称がひたすら「彼」であるため、明確に柚木浩であるわけではない。しかし、彼の若い頃の旅行の記憶を潤色して小説に仕立てたことは明らかであろう。したがって「浩もの」に分類する。
浩ものの作品
「アポロンの島」
「生のさ中に」
「地中海の漁港」
「彼の故郷」
上に挙げた初期短編集に数えられるものは柚木浩のことがたくさん書かれている。
これ以外の多くの短編集でも柚木浩に出逢うことが出来る。短編=浩もの、という理解は大きく間違ってはいない。勿論、それだけではないのだが。
※「アポロンの島」は小川国夫のなかで1番有名な作品といえるが、現在講談社文芸文庫からボッ◯クリ価格で販売されている。出来れば古本屋で、角川文庫のほうを手に取って欲しいのだが。。。
聖書の二次創作
小川国夫がカトリックであることは先にも書いた。しかし、彼は盲目的に神の存在を信じていたわけではない。よって彼の書く聖書作品は説教臭くないため、純粋にエンタメとして世界に入っていける、という特徴がある。
キリスト教文学としての色がより濃い遠藤周作より、宗教味が薄い小川国夫のほうが、信者のあいだではより人気があり、受け入れられた、というのはどこかのエッセイで読んだ話。
むしろ、宗教味というのは小川国夫の場合、物語の筋で表すのではなく、その独特な文体で醸すのだ。小川国夫の朴訥な語りは彼の描く原始キリスト教的な荒々しい世界観と相性が良い。
「或る聖書」という長編小説は新約聖書のパラレルワールド、といっていいかもしれない。ナザレのイエス、即ちイエス・キリスト的な人物が《あの人》という登場人物として出て来る。物語の筋は新約聖書で描かれていることと似通っている。《あの人》は多数の信者を抱えており、その中の一人が密告をして裏切る。裏切られた《あの人》は磔刑に処せられる。
主人公ユニアは他の短編でも度々出て来るこの小説の主人公の、無垢な少年である。この無垢な少年は幼少期に聖書を読んで、憧れを抱いた小川国夫の似姿と言える。この世界に飛び込んでみたいという願望こそ二次創作モノでは1番大事なのだから。
このパラレルワールドの話は小川国夫の生涯の仕事となり、『枯木』、『アポロナスにて』、『海からの光』などの短編を描きながら断片的に埋められて行った。晩年に書かれた『イシュア記』や『ヨレハ記』はまさにその集大成といえる。
聖書を題材に作られた作品
「枯木」『アポロンの島』にある短編
「アポロナスにて」『生のさ中に』にある短編
「海からの光」『海からの光』にある短編
「或る聖書」
「王歌」※ダビデとゴリアテの話
「血と幻」※ユニアは出て来ず、より抽象的で夢幻的であり、暴力的である。
「ヨレハ記」
「イシュア記」
最後に
小川国夫は他に「試みの岸」や「青銅時代」などの上二つとはジャンルの異なる傑作も書いている。「遠つ海の物語」のような童話風の文体で書かれた優しい話もある。「漂泊視界」などのエッセイも良い。