今の私、元気?(恋愛と、抱負について)

先週は何があって頭の整理をできなかったかっていうと。


恋愛事情について

先週は40代後半の男性と一日を共に過ごしてみていた。(みていた)

どうやら好意を示してくれているようで、夜飲み終わったあとも、飲み直しに誘いたそうだった。手が触れた、触れようとしてきた。

それに気づいていたのか当たり前だが周りのメンバーは気を遣った。私は、私自身がこの場に来ることを選んだことを少し後悔してしまった。

彼と一日過ごして、特に気を遣うこともなかったし楽しかった。歩幅を併せて歩いてくれるし、彼も自分の好きなことが決まっているから変に私が先導することもなかったし、思ったことを大胆に話すことのできる素敵な関係だと思った。付き合ったら楽しいだろうなと思った。

素直に。

素直に、そう思ったはずなのに。

最後、別れ際、彼のいえにいくことが嫌だった。私が「彼と過ごしたい」と思っていないのにそう勘違いされることが嫌で、「帰る」って率直に言った。

なんだか、彼に触れられるってことが、昼間はカラダが触れることが平気だったのに、夜の暗さを、いやらしさを帯びたとき、気持ち悪いと思ってしまった。

振り返って彼をみた。電車にのってしばらくしてからかかってきた電話画面をずっと見てた。彼がきっと、無理矢理にでも私に「飲み直そう」って言わなかったことを後悔しているんだなと思った。

しつこくなり続ける画面をみながら、こころは全く動かなかった。

戻りたいとも思わなかった。むしろ、すんなりバイバイできたことに安心していた。

男とおんなって、どこまでも純粋な友達にはなれないのかもしれない、って。私は少なくとも、そうなのかもって思った。


そしてその夜、気になっていた人が「実は結婚をしていた」ということをSNSで発見する夢を見た。

そこで見た彼の夢はとてもリアルで、SNSの文面まで本当にリアルで、SNSにUPして結婚を報告する社交性の持ち主だとは思っていなかったけど、私の知らなかったアカウントで見事に素敵な女性と笑顔で写っていた。

その投稿も、去年の9月の日付とかで、私に少し前に彼は結婚をしていた。

私に、熱のある目を向けたときにはすでに。出会った瞬間ビックリした目を、一生懸命訴えかけてくれた車内も、覗き込む姿も。

最初から一歩踏み出してはいけない関係の人だったんだと、愕然としながらその画面を見ていた。

沢山の人が祝福のコメントをしていた。一歩も動けなかった。そこは、全く知らない地だったけれど、悲しい旅館の前で、動けずにいた。

その夢が、起きた際に、寝ぼけながらもあまりに衝撃的で、その夢を見たことを同じ会社の先輩になぜかメッセンジャーで報告しようと思っていた。普段プライベートの連絡なんてしないのに。

「好きな人が結婚している夢を見たんです。あまりに衝撃的でれんらくしちゃいました」って。

しょうげきだった。現実に戻って数時間経ったあとも落ち着かなくて、「本当にあの彼のアカウントは存在しないのか?」とSNSを共有の友人経由で調べまくった。

「諦めなさい、本当はこうなんだから」って、神様に言われているみたいで。

怖かった。こんなに思考が支配されていること。aikoの歌で高校生の時にであった「夢を見て起きたら恋におちていることもある」みたいな歌詞があって、「そんなことあるかい」って当時頑張っても理解できなかったけど、

今更ながら。「ああ、これなのか」って。あ、これがそれなのかって、経験してしまった。

恋に、落ちたようです。

まだわかっていないけれど、端的に言うと、彼に会いたいって思っている。それだけではない。そんな夢を見て衝撃をうけて、SNSで彼のアカウントを探して、彼の行動を思い返して、彼に溢れてしまった時間が。

そんな時間が、一層思いを濃く。濃くしてしまった。


しかも、彼のチンコを舐めたいと、心から思うようになってしまった。

とんでもなく変態だと、そんな自分にもとんでもない衝撃を受けた。

が故に、これが恋なのか、はたまたただの変態具合が開花しただけなのか、わからなかった。久しぶりの感覚とハジメマシテが混在しすぎていた。

彼のチンコが小さかろうが、大きなろうが、どんな匂いだろうが、興奮していようが、どんな色だろうが。

裏筋をなめたい。我慢汁を指先でなぞりたい。亀頭に軽いキスをたくさんして、少し焦らして、根本まで熱く唾液たっぷりでくわえ込みたい。

男性の手の指は、一定性器の形や大きさなどを表現すると思っていて、よく指を見てしまうんだけど。(潜在的にすでに変態)

彼の指は、程よい感じで、関節が少し太い。ふざけて触れたこともあって。それをおもいだして、とんでもなく興奮する。

ちんこなんて。すこしだって興奮する材料じゃないのに。

パパ活をしていたときも、50代の男性に何回か会って、どれだけかわいがってもらっても、すてきなプレゼントを貰っても、私でどれだけ興奮してくれて貰ってても、

お酒なしにはベッドに入れなかった。フェラを求められても、根本までくわえるなんて絶対に嫌だった。

だから表面だけ舐めて、毎回ごまかした。

でも、元カレのフェラはだいすきだった。最初、彼のことがそこまで好きじゃなかったときのフェラは正直そこまで気分が乗らなかったけど、

会う回数をかさねて、彼なしでは私だっていられなくなったとき。彼の「会いたい」に、夜中であっても家を飛び出して走ってタクシーに向かったとき。

彼のチンコをなめることに、とんでもなく興奮した。

口の中に出してしまう彼がとんでもなく愛おしかった。なめることを「気持ちいい」と素直に伝えてくれることも。出てしまう息も。全部。

その感覚。

一年半くらいぶりの。

とんでもなく久しぶりの感覚。

夢によって、自分の思いと嫉妬に心が支配された私は、彼に抱かれることを想像して何回かオナニーをした。

男性が、すきな女性を想って(アイドルなどであっても)オナニーするのって、こんな感じなのかなとも思った。

野性的な。やせいてきなオナニー。

本能で、知ってしまった自分の感情から、逃れることができなくなってしまったから。

今までは、でも他に魅力的な人だっているから。彼以外にも選択肢があるから。だから40代の人ともデートをしてみたけど。「気になっている人が数人いるの」って言えていたけど。

残念ながら、他の男性を隣り合わせで考えることはもう出来なさそう。

他にどんな男性がいようと、彼のことが気になって仕方ないってことを。ただただ、認識してしまったの。

そんな、乙女な状態になってしまい気づいた、一週間前。

(まだ一週間前かよ・・・・・・)

たくさんの感情がその間に渦巻いた。彼のメッセージがきたら、いつも以上に心臓が揺れた。彼のメッセージの語尾や短さに、「もう二度と一緒に御飯行くことはなくなったんじゃないか」「ほかの女の子のほうがいいってなったのかな」って、無駄な被害妄想をするようになった。

そんな夢を見て目覚めた日には、仕事のことで電話をした。久しぶりに声をきいて、急に体温が上がって、「切りそこねた」という、とても心地の良い雰囲気を感じとって、ああすきってなんだか潜在的に思って、「でも仕事だから」って心を鬼にして電話を切ったときの寂しさ。寂しさよ。

これが、恋してるってこと。なんだっけ。

久しぶりで、とても不思議な感じなんです。期待してはいけない人に期待してしまうことほど自分の首を絞める事ってないなと思って。

と、同時に、

「自分が自分を愛して満たすことはできていなかったな」ってことにきづいて。

誰かに愛されること、愛されることを軸に生きてしまうと、その軸がなくなった際に「こんなに!?」ってくらいに自分が崩れてしまう。

わかっていて、今年になって自分のことを好きになるための行動をしようと思っていたけれど、そこを忘れかけていたし、

自分の心の声に鈍感になって、目先の「たべたい」という食べることでいろんな無駄なことから離れる時間がほしいような。そんな衝動的な感情を重視した。

それもそれで、私自身ストレスがたまっていることを受け入れるって意味で重要なんだけど。

ただ、好きな人ができると、自分による自分への承認が一層重要になるような気がしている。どうにかしたい相手は、そんな相手ほど、どうにかならないから。


ああ、そうか。最近のもやもやは、久しぶりに「恋愛」という分野で動いた感情の話だったか。

40代の彼は、私と過ごした記憶と、私の写真でオナニーしているかもしれない。そんな私は、好きだという感情に気づいた相手を想って今日もオナニーをする。

理屈ではこうだと良いのに、が大抵うまく行かないものだって、まさにこれのことだ。


人生でやりたいと想っていたことが

場を作りたいと想っていたことが。だめになった。

とんでもなく心が落ち込んだ。チャンスが目先に有りながら、ぎりぎりで手を離すことを「強制」されたことに嫌悪感をひたすら覚えた。

今年成し遂げたいと想ったことが。仕事以外でやりたいと心から想ったことが。

これをすることで私の人生が少し変わることをわかっていることを。初めてがたくさんで学びこともストレスも多かったことを。

途中で諦めることになった悲しさ。悔しさ。苦しさ。怒り。

こんなものを蓄積しても、どうしようもないってわかっていながら。

それが加わって、でも目先では追うべきKPIも変わって一日いちにち背負うものに懸命になっている中で、もがいていた。

そんな先週一週間だった。


自分が何者なのかはわからない。今日も採用支援に久しぶりに行って、自分の無力さに心底悔しく、悲しくなった。

何者なのかと言われると、何者でもなく、

自分の立ち位置には、「私」という世界の中でどこまでも上があって、凝り固まった知識や経験の中で驕ることに、私自身や周りへの価値や幸福って一個も、一ミリもないなって。

そうやって「できない」私を隠して生きることが、とんでもなくストレスが溜まって、自分自身を消耗させることになるんだって。

そうだよね。もっと気楽に生きよう。リラックスして。

新年を迎えた際の新しい気持ちの戻ることがたいてい難しいけど、こうやって自分の変化や今をちゃんと可視化して振り返る習慣がついていることはとてもすばらしいことだよ。

いちにちはすぎる。何もしなくたって。何もしない日があったってそれは私の幸せだからいいの。

だってわたしの声を聞いているから。

もっと自分を愛して、もっとリラックスして、自分の人生をまるっと愛おしく想ってしまうような優しい私で、あれますように。

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