ちょうど一年前、私はニートで年を越した話

今年は、なかなか今までの人生の中で思い出深く、少し甘酸っぱいものになった。

今、思い返せば。そんなに可愛いものになった、そんな着地の年末です。


年末、実家にも帰らず自分の明日のために生きた日々


去年のいま頃は、銀座のホステスで働く日々もお休みになって(銀座のオフィスマンが休みなので)、特に年末一緒に過ごせる友達もいなくて、いたとしても一緒に過ごすために散りゆくお金を持ち合わせていないから、

目先の日常以外でやっと浮くであろうお金で、「食」という自分にとって本当に幸せな出来事のために使っていたっけ。

今年に入って、新しい場所にお世話になるんだけど、それまでは前職で数年通っていた賃貸で、一人で、とても寂しく、寒さと向き合って。

今になってしまえば、どんな賃貸だったっけ、なんてことも、外観はかろうじて、内観ってどんな感じだったっけと思うくらいに記憶は薄れて、

新しい自分の生活、仕事場や、住む場所や、関わる人たちや、動く範囲や、飲みにいく場所や、使うお金の量や、好きだなと思える趣味も違う。

前職を辞めてから、自分がこんなに時間をかけて次の道を選択することになったこと、その過程の中で目先のことでもがく苦しい、自分をどこか偽ったような生活をしたこと、誰かの助けをかりる強さがなかったこと、孤独でいることがとても当たり前になったこと。

たくさんの気づきがあった。

銀座では、普段当然ながら着ないドレスを着た。普段から太ってしまってタイトなものを着ないようにしていたから、銀座の面接ではことごとく落ちた。面接を数本案内しますねと言いながら会ったアシストのスーツマンは、外で私を一人でいろんな店舗に回しまくった。

普段銀座で女子会する際に少しテンションと気合を入れていた裏側で、こんな世界と目が当然のように居座っていることを知った。

それがビジネスであり、この世界の「当たり前」「基準」を私が見ないふりをしたから行けなかったんだけど。


「この手」の仕事には手をつけない、と決めていたのに。

たくさんの機会と、チャンスがあるはずだった。いろんな人に会って、話をして、自分をアウトプットしたはずだった。

でも、責任者という役職はは時に全く異なる世界から見ればチンケなものであるという判断をされるのだとのちに気づくことになる。

私なりに「頑張ってきた」ことは、君の転職先に写ろうというスケジュール感の中では役に立たないと。喉から手が出るほど欲しいと思えるものではないと。

世の中に必要とされないフリーランスは、どこに行っても生きていくことはできないのだと。どこかの世界で生きながら、自分の力と視点に驕っていた自分に気づいた。

さらにのちに、とはいえ人事も何もない状態の無頓着とも言えるスタートアップの場合、私の経験も生きるのだと知ることもできたけど。それは少し先の話。

私は、「夜」に染まった。

本意ではないとどこかではわかっていたし、いつまでも続くものではないとわかっていながら。有限で他の何物に変えることのできない「時間」を毎日目先で渡されるお金のために使った。

エンジニアなど将来のためにも物理的にも効率的にもいい職業の勉強などをすればいいのでは、って誰かは思っただろうし私自身も思っていたけれど、

その練習ですらお金がかかる始末で、(パソコンも持ち合わせておらず)その選択をするのは難しかった。

目先の交通費を数えて、メルカリで売れるものを売ろうと思っていて、他に何か稼ぐ方法はないかと考えたが、私の場合パソコンの何かに頼るようなスキルはなくて、全てが「自転車操業」であり、「物理的に拘束」されることだった。

一を費やせば、一しかもらうことのできない世界だった。

体臭のことや、無駄な肉のことや、自分が無能なことを知る悲しい世界だった。

一片を見れば。

もう一片を見れば、その世界は、私の人間を少ししぶとい女にした経験だった。

何もなしに褒められることはなくて、褒められたとしても、他の女性のトークスキルにすごいなと感銘を受けるとともに自分の小ささに気づいた。

50代オーバーの男性たちや、30代後半でもとんでもなく隅々まで気が回るような男性まで。50代を超えて、私とのキスをだらしなくせがむ男性も入れば。

どんな男性たちがいたっけ。

迷惑な客はあまりいなくて。もう一度会いたいと思える人もいたし。お酒にあまりに詳しくて話していることが不思議だった人もいたし。お客さんのテンションに合わせてタバコを咥えたらなんだか怒られたこともあった。

おデブなりに似合うドレスを探して、新宿の地下を歩き回った。必死だった。目先で少しでも、だらしない不甲斐ない自分に気づいてしまわないように。

夜の世界は、昼の世界しか知らなかった私に、今となって幅を与えてくれた。

昼の世界で、綺麗に、明るい場所で、誰かに見られることを前提に、まっすぐこれからの仕事人生を考える学生たちや、キラキラした環境の中で名刺交換をするというのが社会だと思っていた私に、

そんな世界以外のことを教えてくれた。

極めて、女性として疲れと妖艶さを知った、そして自信が溢れるかがやく、強さを持った女性や。

自分の美しさを芯から理解して魅せることができる女性。

彼女たちの強さは眩しかった。

銀座だけではなくて、吉祥寺など他のエリアにも行ってみた。そこでは居心地の良さと女性として輝きが対極にあることを知った。

でも、そこではそこで幸せにできる人たちがいるんだよね。自分がどこに合って、どこで落ち着こうと思うのかの話で。

夜の世界は思っていた以上に、私の記憶の中に残っているんだと、その世界から10ヶ月近く離れた今遡ってみて気づいた。

その世界の中でも「慣れ」はあったけど、いろんな人も優しさに触れて、そして捨てられて。「捨てる神あれば、拾う神あり」って、まさにこういうことなんだと思った期間だった。


寂しすぎた一人の年末


覚えてすらいないのだけど、一人で年を越したのはそうだった。

実家に帰るお金もなくて、家族と電話する気力もなくて、本来の生活に戻るまでの「我慢の時期」なんだと思いながら、

シャバから離れてしまったけど変わらず盛り上がっているシャバ時代の知り合いたちのタイムラインをみる。

とても悲しくなって、離れたりしたんだった。

このまま離れきってしまうのかと不安に思って怖くなったり自暴自棄な考えになったりしたけど、今となってはそんなこともなくて。

そのころに仲良くした人とはまた飲んで、仲良くなって、楽しくやって、むしろ関係の深さやつながりは増えている。

「関係」っていうのは、数値で測ることもできないし、それがいつだって永続的に続くものでもないし、いつ再熱するかもわからない。

だから面白いのかもしれない。

必要があれば、ご縁であれば、また必ず繋がることがある。一度手放すことは恋愛であれ仕事仲間であれ友達であれ怖かったりするけど、

自分のことですら自分でどうにかできない時に何かを捨てないように頑張っても、自分の心が気づかないうちに休めなくて病んでしまうことだってある。

寂しすぎた年末辺りは、本当にどこか麻痺してた。

でもそれが寂しいかと本当に問われると、確かに寂しいものだったんだろうけど、一人で年を越している人たちもいるし、誰もが家族や友達と過ごしているのかって行ったらそんなことないって思って。

そしたら、こんな年末も悪くないかなって思ったんだよな。

感覚は少し鈍っていたけど、なんか「キラキラした世界」から離れた世界の中に自分を抵抗せず置いていく経験は、今この瞬間になってみて「人としてよかった」のかもしれない。

何事も、自分の思い通りに進むことはないし、自分って第三者的に見ればまだまだペーペーだということを思い知って、キラキラ生活だけが世界ではないと知ることができた。それだけが人生ではないと、ニガ虫を潰した顔で知ることができた。

少し、期間は長かったような気がするけど。


「人としての厚み」は一体どこからやってくるのかってこと


不思議なものだった。大抵、当然ながら人はたくさんのことを目先にしながら、それがこの先なにに生きるのかを知らない。

逃げたいと思っていた後ろ向きな経験や、楽しいと思った一瞬が、時間を重ねて「忘れてしまう」だけではないことも。

私は、社会と自分の距離感みたいなものに気づいた。自分がどんな環境にいれば輝くことができるのかも。

今年になって、少し夜遊びしたり新しいポジションになったりする中で、「動じないね」と言われることが増えた。

普通、一般的、と言われる人たちの反応はどう行ったものなのかはわからないけど、どうやか普通とは少し違うらしいということを知った。

でもその感覚は、私にとってはとても褒め言葉に思えた。

自分の経験なのか、元々持っている図太さなのか、それがベールに隠されていて世の中に染まっていた中から救出されつつあるのか。

自分が今まで味わうことのできなかった自分への気づき、変化がとても心地いい。

「どれが」「同様に」「どのくらい」影響されたのかなんてわからないけれど、そんな小さなこと大きなことがたくさん重なって溶け合って、

私というものを作っていく。

その変化は本当によくわからないし、自覚ない変化だってあるんだろうし、死ぬまで変化し続ける自分がどんな姿になっているのか、なっていくのかなんて本当にわからない。

でも確実に、私は変わっていくし、その変化に自分の認識が追いつかないのがきっと当然なことなんだろうな。

ニートから脱した自分も、ニートがあったからこそ気づくことができたものもあって、ニートだからダメなんてことも全くなくて、職に付いている今の方が精神的に追い詰められているのかもしれないし。

ニートであってもニートでなくて、私という根本的な本質は変わらないってことなんだな。

私を囲うたくさんのことはたくさん変化をするけど、私自身であるという一生かかっても解き放たれることのない事実は、愛すべくことなんだろうな。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?