感情に名前をつける試み
2024年になった。年を明けてからというもの、日々爆速で過ぎ去り、ようやくこの土日で一息つけそうな予感がある。
それはそうと、この前Xで見かけたタレントさんが、2006年生まれと聞いて驚いた。2006年は自分が小学生1年性の頃で、母親にマリオとポケモンを買ってもらったころだった。
思い出との距離感が遠くなっている。思い出との距離感が時間だと思っている。遠いあの頃の思い出から、多くの時間が過ぎてしまった。あの感情は得られなさそうだと思い、なんとも言えない悲しさ、寂しさが湧くようになった。
ここ最近、上記の「なんとも言えない悲しさ」のような、今の言葉では形容できない自分の感情が増えた。それってどういう感情なの?と聞かれても、近似値レベルの感情でしか答えられない。本質を言い当てられない。
これは「AとBの感情は後悔という点で一緒だろう」という瑣末な単純化をしなくなったからだけかもしれない。
もしくは、理想の自分に依存しなくなったからかもしれない。理想の自分を注視しすぎると、理想にそぐわない自分の感情は捨象してしまう。つまり、理想と共通する特性・現象以外を問題とせず、本質的な部分を切り取ってしまう可能性があると思う。
人間の複雑性に向き合う
というか人間は本来複雑で、矛盾を孕んでいて、テキストで解釈できないようなものだよね、という前提に立つことが大事だと思う。
人を殺す人が発生する。温厚な人だったのに特定の地雷で恐ろしくキレる。そんなことはイレギュラーではなくは当たり前なのかもしれない。遺伝子レベルで「人としてこうあるべき」なんて、存在しない。だから法律という名の行動抑制装置を用いて、社会を運用していかないといけない。
その人間複雑性を考慮せずに人と接し続けるのは、「こうあってくれるだろう」と思いながら楽観的に人と接しているのは、不誠実なんだろうなと思った。
話を戻すと、僕はしっかり自分自身の複雑性に向き合い続け、形容できぬ感情にも、一定の名前をつけたいと思う。
海に行くと思い出す、父親とヤドカリを取りに行った時の感情や、小さい頃、お風呂に入る前に、母親と話した時の楽しい感情や、高校時代に自分は独りなんだと自覚して、全員を突き離したくなった時の感情など。こういった思い出は忘れたくない。人と関わる際に、これらがベースになる。それらの経験なしでは今の自分に辿り着かない。
ヘンゼルとグレーテルが自分達が来た道のりにパンくずを落とし続けるように、自分も通ってきた道のりをマーキングしておきたい。自分の原理的な文脈を忘れたくないと思う。
おそらく名前がないものから、徐々に忘れていく。しかし大事なものほど、自分にとって本質的なものほど、名前をつけられない。それは「情緒的な」みたいな雑な抽象化で一括りにできないから。
悪い言い方だが、もうこの世にいない大親友とディズニーに行った時の思い出と、そこそこ仲良いヨッ友とディズニーに行った時の思い出を一緒に囲いたくはないんじゃないだろうか。
それらは同じ感情ではないし、変に抽象化して具体を忘れるようなことはしたくない。
ここには「忘れたくないので名前をつけたい」という欲望と、「とはいえ本質的なものには名前をつけられない」という逆説性があると感じている。
逆説性を克服する手段
この逆説性を克服する手段として、物語を描くようになった。
自分を投影した主人公に、自由に世界を動いてもらい、同じ感情を味わってもらう。
もちろん自分と同じことをさせると回想録になってしまうので、異なる動きをさせる。僕はイギリスにいったことはないが、主人公にはイギリスへ行ってもらい、何か体験をしてもらう。ただその時にどう感じるかは、僕の正直な感情を記述する。
「自分の分身」のような存在を、客観的かつ擬似的な参与観察を通して、ちょっと後ろの方から現象学的に記述をしていく。
そうしたときに、「ああ、僕のこの記憶は、主人公が第三章でベトナムに行ってXXをした時と同じ記憶だな」というトリガーが生まれる。そして、それらの感情群に、「ベトナムXXX的感情」という概念名を付与する。
そうすると、その言葉によって、僕の記憶は鮮度を保ったまま、キープできる。ふとした時に「父親とヤドカリを探した思い出は、ベトナムXXX的感情だな、多分この感情も同じだろう」と定義づけができる。
今まで自分を観察する目的として日記やNoteを使ってきた。単純に文章を書くことも好きだが、大体自分の書いた文章は何度も見返し、反芻し、観察対象として分析する。しかしそれはそれで没入できない感覚もあり、80%くらいの満足度だった。
しかし物語のように、自分と同じ存在を異なるシーンで記述することで、客観的に自分を観察することができる。主人公を、自分と全く同じ価値観にも関わらず、存在としては異なるオブジェクトとして、動物を観察するように自分の様態を記述することができる。これは自分の価値観のプレゼンテーションでもあり、かなり意義のあることだと思った。
本質的なものに自分固有の擬似的な名前をつけ、記憶をロックすることができ、かつ今まで限界があった自分自身(を含める人間)の探究という目標も果たせる。とても良いことだなと感じた。
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