「建国記念の日」に反対して――過去との決別のために

本日2月11日は建国記念の日ということで、祝日に定められております。恐らくこの記事をご覧の方の中にも、今日がお休みで良かったとお考えの方は大勢いると思います。私も、休みであること自体はありがたいと感じております。

ただ、私は、「2月11日」を「建国記念の日」とすることには反対しております。行論で述べる通り、もしも体制側の意図を取って戦後にあっても「神武天皇の即位日」を休日とするなら、「2月11日」ではなく旧正月や立春の日が良かったと思うし、私個人としては他の名目で別の日にすべきだったと、あるいは何の記念日でもない休日にすれば良かったと思っております。以下、何故そう思うに至ったのかを述べます。

戦前の2月11日は「紀元節」であり、GHQ軍政期に「紀元節」が廃止された後、1966年に自民党政権の下で復活したという経緯があります。

ここではまず、「紀元節」とは何かを振り返りましょう。

紀元節とは、日本神話の中で「神武天皇が即位したとされる日」です。「大国主命が豊葦原瑞穂国の国造りの最中に幸魂、奇魂と出会った日」ではありません。国造りではなく、既にでき上がっていた豊葦原瑞穂国に神武天皇が攻め込んで即位したことを祝う日です。まずは、以下の勝田守一氏の引用文で、紀元節が明治時代に導入され、祝われるに至った経緯を概観しましょう。なお、この本は後述する通り、紀元節の復活を深く憂慮していた三笠宮崇仁氏によって編集されたものです。

“ 紀元節が国家的祝日として定められたのは、いうまでもなく、明治五年(一八七二年)の太政官布告によるのだが、それからは、官庁や軍隊で儀式が行なわれたけれども、学校の普及もさほどでなく、小学校の就学率も低い時期には、一般的な国民的行事とはならなかったようである。しかし、その後、十数年を経て、明治二十二年(一八八九年)に大日本帝国憲法が二月十一日紀元節を期して発布されてから、翌年には教育勅語が煥発され、その翌年の二十四年(一八九一年)には「小学校祝日・大祭日儀式規定」が定められた。
 ようやく義務教育制度の拡充にしたがって、子どもたちの就学率も急速に高くなるとともに、〈←227頁228頁→〉学校法規で、祝日などの儀式の規定がととのい、学校での式典には「御真影」拝礼、「勅語」奉読、「君が代」、「奉祝歌」の斉唱、校長訓話などの形式が厳粛化し、儀式を通して、「万世一系の皇統」のありがたさを肝に銘じ、「忠君愛国の至誠」を誓い合う神聖な日として印象づけられた。
 子どもたちは、貧富に応じて、それなりに親たちからあらたまった着物を着せられ、フロックコートや紋服の校長先生をはじめ先生たちのおごそかな姿に特別な空気を感じたし、奉祝歌の旋律と季節感との結びつきに、子どもらしい感受性を動かすこともあったろう。”
(勝田守一「紀元節と道徳教育」三笠宮崇仁編『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』光文社〈カッパブックス〉、東京、1959年2月5日初版発行、227-228頁より引用)

以上の通り、明治の初めごろに紀元節と定められた2月11日は、1889年2月11日に大日本帝国憲法が発布されたことを契機に、急速に義務教育等で記念日として祝われるようになり、戦前は「忠君愛国の至誠」を誓い合う神聖な日だとされていました。上述のように、GHQの軍政期に紀元節が廃止されるに至ったのは、GHQが紀元節のこの側面を問題にしたからでしょう。

さて、ここで紀元節がなぜ2月11日なのかを振り返ります。現在「建国記念の日」となっている2月11日が紀元節だったのは、神武天皇が即位した日だとされている紀元前660年1月1日を明治時代に逆算して西暦で2月11日と比定したからです。『日本書紀』、『古事記』の中で神話として描かれている神武天皇の歴史上の人物としての実在は、大国主命や少彦名命といった神話の神々と同様に疑われています。大正天皇の息子(四男)である三笠宮崇仁氏は、1950年代に歴史学上の根拠がないことを理由に、歴史学者として紀元節の復活に反対していました。

三笠宮崇仁氏は、紀元節反対を企図して編集した『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年2月5日初版発行。先ほどの引用した勝田守一氏の論考が掲載された文献)の「はじめに」で、本を編集した意図についてこのように記しています。

“ 偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。もっとも、こんなことはかならずしも日本に限られたことではなかったし、また現代にのみ生じた現象ともいえない。それは古今東西の歴史書をひもとけばすぐわかることである。さればといって、それは過去のことだと安心してはおれない。つまり、そのような先例は、将来も同様な事象が起こり得るということを示唆しているとも受けとれるからである。いな、いな、もうすでに、現実の問題として現われ始めているのではないか。紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか。そして、こんな動きは、また戦争につながるのではないだろうか。こんなことを昼となく夜となく考えては、日本の前途に取越苦労をしているのは、私ひとりだけであろうか……。
こんなことを書くと、そんな悪いやつは国民のごく一部にすぎない、と憤慨されるかもしれぬ。私もそうだろうとは思う。しかし、千羽の白鷺の中に一羽の烏がまじっても、ひじょうに目立つものである。「真実は何か」これが最近における私の日常生活のモットーである。私はこのモットーにしたがって本書を企画した。”
(三笠宮崇仁「はじめに」三笠宮崇仁編『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』光文社〈カッパブックス〉、東京、1959年2月5日初版発行、3頁より引用)

私自身は三笠宮崇仁氏のように自分が「愛国者」や「売国奴」であるかについては気に留めませんが、「また戦争につながるのではないだろか」という思いから紀元節反対の論陣を張った三笠宮崇仁氏の言論活動に心より敬意を抱いています。三笠宮崇仁氏は後に自らの戦争経験について次のように述べています。

“ 一九四三年一月、私は志那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考え下さい。
 ある青年将校――私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです――から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌をつけた果物を〈←16頁17頁→〉出したが成功しなかった、と語っていました。
 「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした。”
(三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』学生社、東京、1984年6月9日第1版第1刷発行、1984年6月20日第1版第2刷発行、16-17頁より引用。)

陸軍士官学校を第48期生で卒業した帝国陸軍の軍人として、三笠宮崇仁氏は、中国の戦場で見聞した日本軍の残虐行為に深い嫌悪を抱き、戦後も戦争の放棄を訴え続けました。行論でも触れますが、まずは紀元節反対論がこの側面から生じていることをご確認下さい。

紀元節とは何かについては以上で概観した通りです。次に、なぜ紀元節を「建国記念の日」として復活させる政治運動が生まれたかを確認しましょう。先ほど述べた三笠宮崇仁氏が編集した『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年2月5日初版発行)に寄稿されている辻清明氏の「紀元節問題の政治的視角」には、紀元節復活論を論じた自民党のK委員(本名は私には確認できませんでした)の1957年5月7日の衆議院内閣委議録が採録されています。以下の通りです。

“ K委員(自民党)「……紀元節は、軍国主義につながっておるとか、あるいは天皇制につながっておる、関係があるというようなお話が、ちょいちょい出ますけれども、紀元節それ自体の意味というものは、軍国主義につながっておらない。いわんや、ただいま申し上げましたように、神武天皇が、そういう平和主義、民主主義のもとに国を立てられたのでありますから日本の紀元が昔から唱えられており、そこに一つの歴史のエポックというものをつくる意味あいにおいて、また、日本の国というものは非常に古い歴史があるから、これをいつまでも民族意識として高揚してゆくという意味あいにおいて、この紀元節ということが、非常に重要な問題である、国の発展には民族意識を高揚しなければならぬ、こういうことであります。日本が初めて負けて、戦後はいささか虚脱状態におちいっておったのでありますが、ようやくにして、今日だんだん盛んになってきた……そうして、紀元節を復活してくれろという民の声が非常に高いのでありますから、この民族意識というものを高揚せしめ、また民の多数の声を聴いて、ここに二月十一日というも〈←216頁217頁→〉のを紀元節として祝うという意味あいにおいて、紀元を祝い、そうして民主政治の本領をますます発揮せしめる意味において、国民の士気を涵養していきたい、こういう趣旨のもとに、私どもは、二月十一日を建国の日としたい。」(衆議院内閣委議録 三二・五・七)
 わざわざ長い引用を試みたのは、適宜な省略を加えることによって、提案者の意図を、あたかも歪曲するかのごとき印象をなるたけ避けようとしたためである。むろん提案者は、このほか、多岐にわたって論旨を展開していられるが、二年間にわたる多くの議会論議を通読したかぎり、この個所が、提案者の意図を、もっとも明快に表現していると思ったので、それを引用したのである。……”
(辻清明「紀元節問題の政治的視角」三笠宮崇仁編『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』光文社〈カッパブックス〉、東京、1959年2月5日初版発行、216-217頁より引用)

大国主命と少彦名命が作りあげた豊葦原瑞穂国が「国譲り」で瓊瓊杵尊に侵略された後に、長髄彦や「土蜘蛛」と総称された土着していた人々を征服して天皇に即位した神武天皇が、果して「平和主義、民主主義のもとに国を立てられた」のかは大いに疑問が残るところですが、問題の本質はそこではありません。問題は、「国の発展には民族意識を高揚しなければならぬ」というそのナショナリズムへの思想であり、そのために「二月十一日を建国の日としたい」というところにあります。

自民党のK委員の言う通り、賛成派の方々は、「二月十一日というものを紀元節として祝うという意味あいにおいて、紀元を祝い、そうして民主政治の本領をますます発揮せしめる意味において、国民の士気を涵養していきたい」と考える限り、それは民主政治を推進するという意図ならば結構なことではないか、三笠宮崇仁氏が言う戦争につながる危険性などは本人の言う通り取越苦労だと言うかもしれません。しかし、一般論として民主政治を推進することと、その手段として「2月11日」を軸とする民族意識(ナショナリズム)を高揚させることには、やはり切り離さなければならない点があるのです。どういうことかを、もう一度前掲書に寄稿された和歌森太郎氏の論考から確認しましょう。

“「日本書紀のいう神武即位日」を祝えともいう。こうしたカッコつきで紀元節を設けよというならば、それは春の初め正月元日である。二月十一日に換算できないものである。旧正月元日、あ〈←246頁247頁→〉るいは立春の日を公定の祝日とする方がよい。
 復活論者はなぜ、建国記念日といいながら二月十一日に固執するか、そこが問題である。明治以来の「日本帝国」と深く結びついているからである。そこに国家体制の本質をもどそうとする意図がかくれているのだ。……”
(和歌森太郎「紀元節問題の現状」三笠宮崇仁編『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』光文社〈カッパブックス〉、東京、1959年2月5日初版発行、247頁より引用)

ここに、「2月11日」を「建国記念の日」とすることの問題性が論じられています。和歌森太郎氏の言う通り、日本神話を背景に、「日本書紀のいう神武即位日」を祝うということならば、旧正月元日か立春の日を祝日とすることも可能であるはずです。なるほど、現在では、1930年代から始まる十五年戦争には現状打破を求める民衆の強い支持があったことが論じられています。その限りでは、2月11日を軸にして民族意識を高揚し、大日本帝国を偲ぶことに、「民主政治」を推進することとの矛盾はないかも知れません。しかし、それは決して「平和主義」には繋がりません。理由としては、先に引用した三笠宮崇仁の中国での軍隊経験の事例だけでも十分でしょう。であるからこそ、先に引用した自民党のK委員が目的の中に挙げていた「神武天皇が、そういう平和主義、民主主義のもとに国を立てられた」という言葉に誠意を感じるならば、「2月11日」を「建国記念の日」とすることで生まれる民族意識(ナショナリズム)の高揚に、明治~1945年までの戦争の時の民族意識が似たようなが生みだすことを憂慮し、反対しなければならないと私は感じます。


私は日本神話や宗教としての神道の原則的な否定者ではありません(宗教ではないとされる「国民道徳としての神道」については明確に否定しなければならないと考えています)。そのため、三笠宮崇仁氏の紀元節反対の論拠とは異なりますが、もしも神話から「建国記念の日」を探るのならば、近隣諸国への侵略戦争の果てに崩壊した戦前の大日本帝国と縁を切る形で、『日本書紀』、『古事記』、『出雲国風土記』、『古史伝』などの神話に記されているように、大国主命と少彦名命が豊葦原瑞穂国を作っていた特定の日を選ぶという方法も可能だったはずでしょう。また、アメリカ合衆国の独立記念日が7月4日であるのが、トマス・ジェファソンの起草した「独立宣言」に東部13州の代表が署名した日であることに因んで、神話ではない人間による事件から取ることもできたでしょう。例えば、私自身はこの考えを採用することには反対ですが、体制側の論理としては、自由民権運動や昭和天皇の「人間宣言」が「五箇条の御誓文」を根拠としていた通り、「五箇条の御誓文」が発された3月14日ないし4月6日を「建国記念の日」とすることも可能であったはずです。1951年のサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約調印の日である9月8日を「独立記念日」とすることもできたかもしれません。戦前日本の革命運動はついに勝利することができませんでしたが、反体制側が革命的に勝利する記念的な出来事があれば、恐らくはその日が「革命記念日」として勝利して反体制から体制となった革命派から祝われていたでしょう。国民国家がある限り、体制が「建国記念の日」、「独立記念日」、「革命記念日」といった形で自らの権力を樹立した記念日を祝うことは、不思議なことではありません。私はアナキストとして国民国家はない方が良いと考えていますが、国民国家を来月や来年に廃絶することができない以上、「建国記念の日」であれ「革命記念日」であれ、当面は国家を祝福するそのような記念日が、それがどのような意図をもってなされているかを見定めなければならないと考えます。

ですので、「建国記念の日」への反対を、二つの次元から主張します。まず一つ目は、大日本帝国の過去との決別を経ずに「2月11日」を「建国記念の日」としてしまったことであり、二つ目は、「建国記念の日」であろうと「革命記念日」であろうと、国民国家を祝福する記念日が民族意識(ナショナリズム)を高揚させ、国家の名の下に行われる戦争その他の犯罪行為を助長する契機となるということからです。

今日2月11日が休みで良かったと多くの方は思っているでしょう。私も休みであること自体はありがたいと思っています。しかし、今日ではなくとも、別の日を公定の祝日とする可能性もあったし、国民国家の祝日を定めなければならないのならば、別の日を別の理由で休みとした方が良かったと私は考えます。私の好む、大国主命と少彦名命の活躍する日本神話が、民族意識を高揚させるという政治目的に引きずられ、ろくに敬意も抱かれず内容も知られないまま、国民国家の箔付けのために利用され、戦前の日本国家による犯罪的な戦争加害を正当化するための道具として用いられることに、私個人には憤りがあるからです。神道家の多くは「建国記念の日」を奉祝しているかもしれませんが、大和族が伝えてきた神話を、悪しき日本国家を正当化する道具にせずとも、神道はやっていけると私は考えていますし、折口信夫氏が戦後「民族教より人類教へ」、「神道宗教化の意義」にて語っていた通り、神道が「国民道徳」ではなく「宗教」であるためには、私の述べる方向はむしろその一助になると確信しています。そう思いつつ、本稿を擱きます。

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