欠けらと澱み、あるいは斑らな時間
断片が断片のまま繋がらない。思い出した欠けらが新たな欠けらを呼ぶものの、それをまとめる時間軸が見つからず、視座が低空飛行のまんま。広い風景を見渡すことができない。そういう焦点距離のあまりに近接した状態だと、自分のいるところもよく分からなくなる。というか、どこかにぶつかることでしか身幅が分からなくなり、衝突も増えてくる。衝突した時、跳ね返ってくる振動は私へ届く。ときどき、衝突によっても断片がうまれるが。
最近よく縄文時代の遺跡と考古/博物館をたずね、土器を見る。たくさんの断片から成るものの多くが復元されていて、精巧な立体物となり展示されている。しかし、見つかったときは違うのだ。土偶のように壊した形跡のあるもの、また土中で長い時を経て割れてばらばらに欠けてしまったもの。発掘の際には、その欠けらが掘り集められる。そもそも遺跡が見つかる前から、周りの住民には土器の断片がよく出るところと知られていて、それらを拾い集めてる方も多かったらしい。
欠けらは復元されたものとは異なった情報に溢れている。表裏に残された痕跡、また別の断片へとつながる兆し、断面に現れる層からうかがえる工程。ほとんど表面には残らない土器を作った縄文人の指の跡が見つかることもあるそうだ。その指の大きさから土器を作っていたのはもっぱら女性だった、という説も生まれた。
少し前に津南のなじょもんで写真家の中井菜央さんのお話を聴いた際、考古学者の佐藤雅一先生がそのようなことをおっしゃっていた。
写真展のタイトルは「破れる風景」といって、津南の雪によって切り取られる景色を捉えた写真が多い。
(写真は積もりたての雪に残るハクビシンの足跡)
しんしんと降り積もる雪は音を吸って視界を飲み込み、空を見上げると降ってきてるのか、自身がのぼっていくのか分からない。放り込まれたような、宙に投げ出されたかのような。雪が世界を断片化させ、人の暮らしと太陽、水辺だけが雪を溶かす。積もった雪は重く、湿り気を含んでおり、時間が経つほどに一辺倒でなく斑らになる。屋根に積もった雪はもっこりと頭をもたげていっぱいいっぱい。閾を越えれば轟音とともに雪崩れる。またいち早く春を告げるのも、雪溝を流れるゴーッという雪解けの音だ。まるで音をため込み、時間差で一気に解放するかのよう。本当は音だけでもないのだが。
土器は縄文人が使った器だから、日常的に使ったものと大切な祭祀用にとっておきだったものとあるだろう。大切なものを蔵(しま)うのと、数が必要だから取っておいたものとでは、少し思い入れが変わるかもしれない。貯蔵穴のなかに大切な保存食と一緒にしまった器も、祭祀用のものも、いつも住まいの中にあった日用品も、それぞれに異なった時間をそこにどめている。