マムシへの備えとかわいい青大将、あと縄文
湿った用水路でマムシを見かけた。
壁の高さで這い上がれないのか、小さくうずくまったまま身じろぎしない。最初、小柄なシマヘビかと思ったので網ですくったが、近づけば模様に特徴のある列記とした日本の毒ヘビ代表格。マムシの毒は出血毒といわれ、放っておけば血管をめぐってタンパク質が壊れ、臓器をやられてしまう。血清があるのですぐに病院に駆け込めば亡くなることは少ないらしいが、噛まれてしばらくたってからの激痛と後遺症に苦しむことが多いという。
(下のツイートは、マムシの潜んでる様子がよく分かるイモリ探求家の方からの引用)
好んで山際の日陰になったドブや、草陰に覆われた湿気を含む場所にいる。ときどきあるそうだが、「痛ッ!」と思ってもそれがマムシによるものだと気づかず、放っておいてしまうケースで重症化するんだそう。
聞いたところでは、目視できない雨樋にたまった落ち葉を掃除していた年寄りが、チクッと痛みが走ったが棘でも刺さったかと思いそのまま放置。あくる日には亡くなってしまっていた、という話。時間差でやってくる感じがなんともいえず怖い。
備えようとは思えど、誤って踏んでしまったり、迂闊に相手のテリトリーに入ってしまったとき、噛み付くモーションに入った蛇の早さには、正直いってなす術がない。野生動物の多くに言えることだが、こちらが予期しないタイミングで出逢ってしまったとき、ほとんどの場合何もできないのだ。それではどうするか。居そうな場所には必ず居ると思って、こちらからマムシの好みを探す、捉えに行くような感覚を持つほかない。そうすると、相手だったらどうしているか、と半ば向こうからこっちを覗いているような視点が自ずと生まれてくる。
縄文人が蛇の文様を多用し、大切な信仰の対象としたのも、山藪に入った際、あるいはふだんの暮らしにおいて身近でかつ気をつける対象だったからではないか。
最近また石倉敏明×田附勝「野生めぐり」(淡交社)を読み返す機会があった。ここに出てくる12の神話のうち、半分以上が身の回りの生きものの神についてである。そのうちのひとつ、御柱祭で有名な諏訪の信仰に基層に、ミシャグジとソソウと呼ばれる神がいたそうだ。ミシャグジは石や木を通して現れる神と言われ、ソソウは水や土にやどる蛇や竜の姿をした神。かつて、この二つの神が合一する「御室(みむろ)」と呼ばれる神事があった。冬の100日間にわたって六人の少年が暗闇にこもり、春の到来を待つ。
この神事はすたれてしまったが、ソソウのように、諏訪では今も水脈を蛇となぞらえた頃の想像をたどり直すことができる。諏訪湖をはじめ小さな聖地となっている数ある池たちが地下水脈でつながっているイメージ。諏訪大社上社の近くにある葛井池には、大晦日に榊や柳を供える儀式があって、あくる日にはサナキの池(左鳴湖)に浮かび上がるという伝説もある。
地下と水、それに土をつなげる蛇のイメージが縄文土器のモチーフとなるのは、ごく当然ともいえるだろう。地下の世界から掘ってきた土を焼いて生まれた器、それに水を張る。ぐつぐつと深鉢のなかで沸騰する水炊きは、生きものを食べものに変えてくれる。
住まいの傍にいるアオダイショウのような蛇は、ネズミなどを食べてくれる益獣であり、富める家の象徴ともなる。水や土が豊かであれば、おおかたの暮らしが成り立つのがかつての暮らしであった、といえるのかもしれない。
(冒頭の写真は玄関に現れた人懐こいアオダイショウ)