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♂と♀ ふたりがいる意味 後編①

こんばんは。id_butterです。

ふわふわじゃないスピリチュアル学 の第8回で、♂と♀ ふたりがいる意味 中編 の続きです。
後編と書いておきながら、①をつける計画性のなさに苦笑。
終わらなかった。。。

前編で神という名前の集合意識から分離して個別のエネルギーが人間の原型として意識を持つようになったことを書いた。
中編ではその個別のエネルギーがそれぞれの体験を得る中で男性性、女性性というそれぞれの個性を持つようになり、さらにそれを発揮しようとする中で互いの否定および対立が起きたところまでを書いた。

そして、その中で個人的に引っかかったことがいくつかあった。

・男性性は、科学や芸術といった文明を発展させることにより人間の生活を豊かにしてきたこと。男性性の発揮こそがこれまでの地の時代を牽引してきたということ。それは不断の努力によって成り立つ過酷なものであること。
・女性性は、地の時代において陰の存在ではあったもののまさに「信じるものは救われる」という性質により地上で細々と生き延びてきたこと。ただ、それは条件付きで存在してきたこと。
・男性性と女性性は対立構造にあること

この辺の違和感は当初の疑問だった「男性と女性という陰陽の存在がそれぞれ必要なのか」にやっぱり帰結する。

結局のところ男性と女性ってなによ、ということだ。

これに関しては、まず仮説ありきで行きたい。
完全なる推測だけれど、1+1=2では意味がない、と思うのだ。
もともと一つであったものが分かれた以上、1+1が5とか10とかもっと大きなエネルギーを生み出すこと、あるいはまったく新しい何かを得ることが目的であるはずだ。もし、目的というものがあるのであればだけれど。

男性性と女性性、という異なるキャラクターの存在は、その目的に沿う。
役割をそれぞれ分担して追求するというのはなんか良さそうだ。
そして異なるキャラクターというのは、自らの欠落を意識させる。

自分にはないもの、に心惹かれるということ。
その欠落に憧れたり、その欠落に嫉妬したり、その欠落を埋めるために努力したりしてわたしたちは生きている。

前回書いたカインのところ、男性性について見ていたら、息が苦しくなる。
まさに「地の時代」そのものだ。
それだけじゃない、よく知っている。既視感。

「何もできない自分には価値がない」
「怠けてばかりではいけない」
「日々努力して、昨日の自分より進化してなくちゃいけない」

…こういうやつ。自分の中にある、自分を苦しめる思い込み。
カインは神様に愛されていないから、自分で努力して全てを作らなくてはいけない。
それは、その努力は尊いのに、過酷だということ。
正しいはずなのに、自分の中のやつなのに、なぜか苦しめられる。

社会人として、生きていると「個性」より「能力」が求められるシーンは多い。いや、多かったのだ、土の時代は。
努力や能力は尊いはずなのに、してもしても苦しさから逃れられない不思議、これはこういうことだったのかと思った。
男性性は、苦しさともともとセットだったのだ。

片側で、子どもを授かった瞬間に自分の中に生まれた、逆の価値観がある。
生まれたばかりの赤ちゃんの神々しさに触れれば誰もがわかるはずだ。
本当は誰もがそのままで価値のある存在だということ。

それ以来、自分の中にある真逆の価値観同士が、あるいは外の物差しと内側が対立してきた。
まさに、目の前で男性性と女性性の対立が起こっている。

この話は、時代の話でもあり、一人の心の中の葛藤の話でもあり、会社や家庭の話でもあるかもしれない。フェミニズム運動とか男尊女卑とかDVとか、逆に最近の学校では男の子も〇〇さんて呼ぶとか、まぁいろいろ起こる。
いつかも書いたフラクタル構造がここでも見られる。

この男性性の苦しさというのは、「自分への欠乏感」が基だ。
庇護下から出て一人で歩いていくということへの心細さ、外の世界での挫折は自分への信頼を損なう瞬間がくる。
でもだからこそ、不断の努力は人間の生命力を引き出し、新しいものを生み出すという奇跡が起こる。

だから、男性性というのはやっぱり必要なんだな。
だけどこの男性性は原初的というか、完成形ではない気がする。
若い?青い?感じ。
父性的な男性性、というものもある気がするんだよな。

そういえば、男性性にはいくつかあった。
「段階」があった、そう占星術の本にあった生命の樹で見たのだ。

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わからない人向けに簡単な説明を入れる。素人なのでご容赦を。
生命の樹はひとりの人間の中にある10の人格(精神のステージ)を表す。
1〜10の精神的ステージそれぞれに年齢域が設定されており、年齢に合わせたステージをバランスよく鍛えることで、それぞれの力の本領を発揮していく。図の下部にある意識は世俗的で人間に近く、上部に行くほど神や宇宙に近い。さらに、右側(2,4,7)は男性性、左側(3,5,8)は女性性の資質を持っている。

男性性についてだけ取り出すと、こんな説明になる。
2:コクマー・叡智…宇宙の父なる男性原理
4:ケセド・慈悲…能動的な愛のエネルギー、リーダー的視点、人類愛
7:ネツァク・永遠…新陳代謝や性的欲求のエネルギー、異性愛や自然の営み
7 → 4 → 2 と数字が小さくなるにつれ、高次の概念になっていく。

わたしが先ほど「苦しい」といった男性性は「ネツァク」に近いものだ。
何かが欲しいという欲求に突き動かされて生きることとその結果。

「ネツァク」を美徳として使うには、感情的なエゴに流されてはいけない。目先の快楽や本能に惑わされず、人生の目的に沿って意志のある判断がネツァクの性質である勝利を呼び込む、らしい。
たしかに男性って苦しみを昇華させて何かを作り出すのが得意ってひと多いかもしれない。スポーツ選手とかを見ていてもこういうことを感じるときはあるかもしれない。

ここまで、とやりきったはずなのに行き止まりを感じたり、あるいはやってもやってもゴールがない、そんなときにあれとふと我に返ることがある。
「何か忘れてる」「何かが足りない」
…こんなわたしが感じる「男性性の苦しさ」とはネツァクを中途半端に発揮した結果らしい。やりたいことを本能のままにやるだけでは、足りないらしい。
足元ではなく、遠くを見て歩かなくてはいけない。
たしかに、わたしはまだ、わたしの人生の目的を理解していない。

ここでひとつ気づいたのは、流れを起こすのが男性性の役割、ということだ。
基本水は高い方から低い方にしか流れない。
能動的にエネルギーを注ぎ、維持し、永遠に循環させるのは男性なのだ。

この動き、というのが男性性と女性性の意味に関わる気がする。
でふと、神社は女性の体を表すと言われることを思い出す。

鳥居は、女性が足を開いて立っている姿、つまり股を表し、社殿は、女性の子宮にあたると言われています。
〜鳥飼八幡宮ブログ(https://hachimansama.jp/blog/10379)から引用〜

神社のブログではこの表現で限界だったけれど、探してみればもっと色々情報はあった。
個人的には、下記で読み替えた上で、神社でのお作法の順番で並べてみたらセックスのステップの順番とまあまあ合っているのである程度納得した。

鳥居 → 股、外陰部
参道 → 産道
お宮 → 子宮
手水 → 濡らす
お賽銭 → 精子
ガラガラ(鈴) → 金の玉
ガラガラの紐 → 男性器
紐を揺らす → 刺激して射精を促す

どこまで正しいか、の真偽は置いておく。
神社が一定の型を持って作られていることには、意味があるのだ。
おそらく、セックスはエネルギーを生み出す装置で、神社はそれを真似ている。神社はエネルギーを操ろうとする誰かが生み出した装置なのだ。
セックスはわたしたちが唯一生命を生み出せる方法、といえば理解できる。
神社が生命を生み出せないのは、まだ人為的な方法が確立されていないということだ。

エネルギーは存在そのものより、「動き」というのが大事であろうことはこの神社の話からも推察できる。
まぁね、とは思う。
水力発電の仕組み(水が高所から低所へ落ちる力で水車を、さらに発電機を回転させる)と同じだと思えばわかりやすい。
動きは力を生み出す、というのはエネルギーも同じなんだろう。

ということは、「動き」が生命そのものということなのか、な。

神社は、日本バージョンというか神道バージョンの「神殿」だと考える。
実はここまで数々引用してきた「神殿伝説と黄金伝説」の「神殿」とはなんなのか、をここで述べないといけない。

神殿とは、内なる人間のことらしい。

建築技術において、真の音響効果のある建物を建てることは、完全にできなくなりました。
以前の人は、この技術を知っていたのです。建物を外側からのみ設計する人は、決して良い音響効果を作りだすことはできません。しかし、直感的に思考し、高次の領域に根をおろした考え方をする人には、音響効果の良い建物を造る能力があるでしょう。それを知っている人は、次のことも知っています。すなわち、生命なき自然の中から重力や光や電気を手に入れることができたように、私たちが今日まだ支配できていない外なる自然の諸力をも、未来においては手に入れることができるようになる、ということをです。
〜神殿伝説と黄金伝説(ルドルフ・シュタイナー)より引用〜

神から与えられた手段ではない方法で人間が自然や命を生み出すこと≒神殿を建てること、である。
そして、その方法を模索しながら秘密を守り伝え進化してきたのが各種宗教団体だったり某秘密結社だったりだということだ。
男性性と女性性がその「秘密」の根幹を担っている。

男性性は、殺すという罪を犯して、神から追放され自由を手にした人間が、みずから汗して働き、たゆまぬ努力を重ね、火、建築、芸術などの技術を手にしてきたということだ。
しかし、それは生命を持たない、無機的なものを支配する技法である。

これだけではまだ半分で、神殿は建てられない。

ちょっと話が逸れる。
伊東乾さんという方の講演会に行ったときの話。
「さよなら、サイレント・ネイビー」というオウム 真理教信者でサリン事件の実行犯ともなった同級生の本を書かれているのだが、本業は音楽家らしく、wikiには作曲家、指揮者とある。

印象に残っているのはコンサートホールの設計の話だ。
耳は、右と左で機能が違う。右左についてはどっちがどっちだか忘れてしまったけれど、例えば音楽を聴く時は左から、論理的な話は右から聞いているといった感じである。
だから、音楽を聴く耳に音が入っていくように、コンサートホールのスピーカーの位置が決まっている、というようなことだ。
ご本人は話をする時はこっち側に立つ、みたいにシーンに合わせて舞台上でもあえて立ち位置を変えるのだそう。

そのときは、ふーんとしか思わなかった。
でもこの神殿の建築技術についての記述を見たときに納得した。
世の技術というのは、表と裏二つの意味がある。
表では目の前の現実を形づくる。裏では今も究め続ける一部のひとにとっての真実を形づくる。
そして思った。
リベラルアーツの近くにいるひとは、世の真実を知っているひとたちだと。

話を戻す。
神殿とは人間だということ。
神殿を造る技術は、男性性を究めた結果として人間が手に入れられるものだったということ。
けれど、技術だけでは足りないというところまでだった。

ここで4000文字を超えてしまったので、本日はここまでにします。
書きながら思ったのですが、これってわたししか興味がないのでは。
恐怖に怯えながら夜な夜な書いております笑




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