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社会人で必要なことは、すべて小田急で教わった【①駅員編】

私は昭和39年8月10日、神奈川県川崎市で生まれました。物心つく前に九州・大分に引っ越したので、大分で幼稚園から高校卒業までを過ごしました。ローカルネタですが、津留小学校、城東中学校、大分商業高校です。

大分商業高校では人生でなかなか経験することのない、熱く素敵な体験をしましたが、それはまた別の機会に書きます。誠にヤンチャな高校で本当に大商に学べたことは私の誇りです。

昭和58年に東京に上京して来て、18歳で社会人になりました。右も左も分からない田舎者の私を育ててくれたのは小田急電鉄。運輸部に配属となり、世田谷区にある経堂駅に配属されました。今、経堂駅は見違えるほど美しい高架駅になりましたが、当時はホームから地下に降りると暗い改札口があり、お風呂場の番台のようなところ(ラッチといいます)で切符をカチカチ切っていました。私の社会人一年生は、この「切符切り」から始まります。

切符切りも主要業務ですが、ホーム監視(特にラッシュ時の安全監視)は気の抜けない仕事です。朝のラッシュ時に上り電車が到着すると、混みすぎていてドアが開かない。乗客が乗りすぎていて車体が膨らんでいます。18歳で田舎から出て来たばかりの、ほっぺたが赤い新人駅員は先輩にどやされながら、ラッシュの押し屋に奔走します。車掌がドアを閉めた後、あちこちのドアが閉まらずに乗りたい人が挟まっているのを押す(または引っ張って諦めてもらう)のです。女性だと押す場所に困るので、あちら側を向いてもらいます。男性の場合は容赦なく押し込みます。一仕事終えて、電車は数分遅れで出発します。電車が去った後のホームから線路を除くと、側溝(線路わきの溝)には傘や脱げたハイヒールなどが散乱していました。

経堂駅は夜の任務も厳しいものがありました。今は喜多見に車庫が移動しましたが、当時は経堂に車庫があり、小田急線の最終電車はすべて最後は「経堂行き」なのです。夜12時を過ぎるとすべての電車が「当駅止まり」。この車庫へ入る電車から、泥酔した酔っ払い、モトイ、お酒を過度に召し上がられて意識を失ったお客様を、引きずり出す…モトイ、優しく起こして差し上げ、改札口の外へほっぽりだす…モトイ、お優しくタクシー乗り場までご案内するのが日々の日課でした。

「おきゃくさーーん、終点ですよーーー。」もちろん、起きません。

「おきゃくさーーーーん、起きて下さーーーい。」起きません。

「おきゃくさーーーん、箱根湯本ですよ。」

びくっとして目を開けます。なんだ、意識あるじゃん。

もちろん、泥酔している方は起きる意思など全くありませんから、やむを得ず実力行使・・・はできないので、どうすれば起きて貰えるかを研究するようになりました。揺すったり、叩いたりはあまり効果はありません。

人数が多すぎて、いちいち警察を呼ぶわけにもいかないので、最初は担架に乗せて運び出していたのですが、運び出したところで意識のないお客様をシャッターの外に捨てて帰る訳にも行きません。(本心ではそうありたいところですが)私はある時、試したのです。新しい方法を。

「おきゃくさん、おきゃくさん、今日も一日お仕事、お疲れ様でした。こんなところで寝ていると、風邪ひきますよ。明日もお仕事ですよね。早く、お帰りになって、布団でゆっくり休んでください。」

と、優しく語り掛けると、かなりな高確率で、むっくりと起き上がり、いかりや長介か加藤茶のように、おぼつかない足取りで敬礼しながら、立ち去っていくのです。そう、多くのお客様は企業戦士として遅くまで戦い、精魂尽き果て、電車で倒れているのです。おそらく帰宅しても、奥様からの優しいお言葉など期待できません。怒鳴られるか、呆れられるか、無視されるかが関の山。優しい言葉をかけてくれるのは経堂駅の駅員くらいです。


【教訓】面倒だなあ、嫌だなあと心の中で感じても、まずは共感をベースに対応すること。敵意をむき出しにするよりも良い結果になることが多い


皆さん、駅員さんは本当に大変なお仕事なんです。寒い中、暑い中、早朝から深夜まで乗客の安全のために神経を張り詰める仕事です。どうかリスペクトの気持ちを忘れずに、心の中で「お疲れ様」と囁いてあげてください。黄色い線の外側は歩かずに、駆け込み乗車もやめましょう。次の電車を待つ心のゆとりを。



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