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「ふつうの話」を聞くこと―岸政彦先生の朝カル講座の感想

敬愛する社会学者で作家の岸政彦先生の朝日カルチャーセンターの講座「積極的に受け身になる―生活史調査で聞くこと、聞かないこと」を配信で受講しました。昨年に新宿住友ビルで行われた初回(人気がありすぎて会場がギューギューだった)にも参加したのですが、まさか一年たらずで世の中がこないになろうとは……。講座終了後に即席のサイン会になって、『図書室』にサインをもらい、「いつか岸政彦論書きたいです」などど言いながらワタシの名刺を先生に押し付けてきたのは良い思い出です。あの日の新宿は快晴で空は澄みきってたっけなー(今日の関東は雨で12月なみの肌寒さというどんよりさ)

講座の内容は、筑摩書房で進めているプロジェクト「東京の生活史」へのものが中心でしたが、人から聞いた「ものを書く」(≒「物語」を書く)という姿勢を改めて問うものでもありました。先生は主に沖縄の人々の生活調査、聞き取りをフィールドワークとしています。当然、戦争は避けて通れない。(余談ですが、以前「ブラタモリ」で沖縄の泡盛の古酒をとりあげた時、のん気なワタシは「琉球王国時代からの古酒とはさぞかし歴史があろう!」とか思ってたら、蔵元の人が「戦争で沖縄の泡盛は全て無くなってしまった」と仰っててショックでした。)そういった、自分の力ではどうしようもないことで傷付いた人びとの話を聞くということ、活字にするということはどういうことなのか。そこには、暴力的で残酷な面があるということを自覚しなければならないと先生は仰います。そして、過度に「ドラマチック」を求めてしまう傾向にも気を付けなければならないとも。私達は〈「ドラマチック」=良いもの〉だという思い込みがあります。90年代に涙や感動のノンフィクション作品が大流行した残滓なのかも知れませんが。でも、市井の人の「ふつうの話」でOKなのです。と書いてきて、「ふつう」って何だろうとも思います。例えば、同じような経歴を歩んできた人が数人いても、その中身は当然バラバラですよね。それを思うと「ふつう」って一つも無いのではないか、とも言えます。でも、ここでは「ふつう」を使いますが、この「ふつうの話」、いわば決して表に出ることなく埋没している〝物語〟が積み重なることで、一つの立派な強度を持った表舞台に出る「歴史」になるのだな、と思いました。(「ふつう」ではない)「ふつうの話」が合体して強くなるって、なんだかロボットもののよう。そして、語り手の〝語らない〟〝語れない〟ことを尊重しないといけないとも思いました。単に語り手が忘れているという場合もありますが、そこには語り手の人生が込められている、という想像力を働かせなければならないのでしょう。この〈書かれない行間を重要視〉する、という何だか文学的な作業。個人的には社会学と文学はあまり仲良くないと思っているので、社会学者であり小説も書かれる岸先生に何とか橋渡し役をお願いしたいなー、などど余計なお世話を考えたりもします。

このプロジェクトは壮大で、およそ150人の聞き手からなり、現段階では「二段組でおよそ800から1000ページ(!)」(筑摩書房のHPより)の予定だそうです。今時、二段組とは!(二段組が好きなので嬉しい)それよりも、聞き手に応募した人は500人近くいたそうなので、市井の人の歴史への関心の高さがうかがえます。ワタシは聞き取り作業のしんどさ(人の話に侵食されやすいので後遺症が残る)が怖くて応募しませんでした。