ありふれた日曜日に、ブロッコリーを刻む
「こういう夜はねぎを刻むことにしている」
江國香織さんの小説「ねぎを刻む」に、そういう一文がある。 主人公は、孤独を感じたとき、ねぎを刻むのだという。
「孤独がおしよせるのは、街灯がまあるくあかりをおとす夜のホームに降りた瞬間だったりする。0.1秒だか0.01秒だか、ともかくホームに片足がついたそのせつな、何かの気配がよぎり、私は、あっ、と思う。あっ、と思った時にはすでに遅く、私は孤独の手のひらにすっぽりと包まれているのだ。」
(江國香織 著 / ねぎを刻む 「つめたいよるに」新潮文庫より )
この本を初めて読んだのは20年以上前のことなのだけれど、孤独が押し寄せる描写も、そういう時にとる行動も「孤独は自分のものだ」と思う気持ちにも共感できて、とても好きなお話だ。
でも、なぜ「ねぎを刻む」のかだけ、よく分からなかった。主人公はなぜ、孤独がおしよせたら、ねぎを刻むのだろう、と。
その謎がとけたのは、さっき、ブロッコリーを刻んでいる時だった。
「お母さん、お昼ご飯作るよ」
ありふれた日曜日。今日も子どもたちは、どこにもいかず、家で好きに遊びたいという。 散らかし放題の部屋にうんざりしながらも、2人で戦いごっこをしている子ども達に声をかけて、キッチンに向かう。
はぁ……。
お昼ご飯を作るといったものの、手につかず、何度もキッチンをうろうろ。心ここにあらずで、冷蔵庫の扉を開けては閉める。
子どもを育てるようになってから、よく不安になる。 うまく子どもに接することが出来ない時、イライラしてしまう時、些細なことでも、「私はこどもと良い関係を築けているのか」とか「大丈夫なのか」「これでいいのか」と、不安になるのだ。
とにかく自信がない。 自分は普通の家庭で育ったけれど、幼少の頃はとにかく怖がりで、いつも怒られてばかりだった。だから、こどもにどう接したらよいのか、自信がない。そして、いつも不安になる。
更に今は、新型コロナウィルスが流行中。情報が錯綜して、更によく分からない不安がつきまとう。
今後感染はどうなるのか? 収束はいつ? 自粛はいつまで? 経済はどうなるの? と、不安になれば、きりがない。悪い想像をすれば、気分はどんどん沈む。
あぁ、だめだ。集中しよう。
「ひとまず、お昼ご飯を作ることに集中しょう」 そう思って、冷蔵庫から、大根と玉ねぎ、しめじを取り出し、千切りにする。 鍋にだしと水と共に入れて煮込んで、みそを入れる。
スナップエンドウの筋をとり、ゆでる。卵をゆでて、ゆで卵を作る。 そして、ブロッコリーをゆでる。
「ブロッコリーは鍋の上で手で裂けば、包丁を使わずに時短になります」 そんなことを聞いたので、やってみたけれど、私にはどうもやりにくく、いつも包丁でブロッコリーを切る。確かに、包丁で切ると、ぽろぽろとこぼれる。でも、芯だって皮をむいて使いたいので、やはり私に包丁は必須だ。
ブロッコリーの芯に包丁を入れ、小さな株ごとに切り分けていく。大きな株は更に小さく。ブロッコリーは意外にも大きく、何度も包丁を入れる。すべての株を切り離し、芯だけになったら、周りの皮をむく。そして、芯も適当な大きさに切っていく。 ひたすら、ブロッコリーに集中して、切り刻む。
ふぅ……。
あれ。
切り終わったブロッコリーを見て、私は「不安」が小さくなっていることに気が付いた。
そして、分かったのだ。 「ねぎを刻む」でなぜ主人公が「ねぎを刻む」のか、が。
きっと、「目の前のことに集中するため」なのだと。
不安とか、孤独とか、自分ではどうすることも出来ない感情に襲われた時、大事なのは、きっと、その感情に支配されないことだ。
それを消そうとか乗り越えようとか、どうにかしようと思うのではなくて、目の前のことに集中すること。
「自分にはどうにも出来ない感情」に目を向けるのではなく、「自分にできること」に集中すること。そうすれば、不安に支配されず、客観的にとらえることが出来、「じゃあ、自分には何ができるか」を考えられるようになる。
こどもが私をどう思うか、それが今後どう影響するのかは分からない。 だから、自分にできることをする。
新型コロナウィルスに対しても同じ。どうなるか分からないけれど、自分にできる対策をする。 自分にできることを積み重ねると、安心していける。
あぁ、なるほど。
不安になったら、ブロッコリーを刻むことにしよう。 目の前のことに集中して、自分にできることを積み上げよう。
「なんでだか、今日のブロッコリーサラダはいつもより美味しいやん」いつもより豪華になったお昼ご飯。 ブロッコリーとゆで卵のサラダをつまみながら夫はそう言った。
今日もありふれた、日曜日だ。