表現の仕方が違う(誰でも的確に自分の状態を伝えられるわけではない)
障害者雇用や発達障害について書いているnoteです。今日はダラダラと結論のない記事です。
発達障害と一括りにしてますが、その程度の濃淡は大変差があるものだと思います。ADHD、ASD、LDと、それぞれの違いというより、同じ診断名の中でも同じではないということです。
発達障害は性格的な要素がありますので、「強めの個性」だと言われることもありますね。マイペースであったり、繊細緻密であったり。集中力の高さ低さもそうでしょう。
また、言語処理に強い人、デザインに強い人、記憶に強い人、空間把握に強い人、そしてその代わりに別のことが弱い人もいるでしょう。
そんな中、障害を感じていない、いわゆる健常者の人々は、大人になる程、言語処理を中心に世の中の事象を整理していきます。
「まずは話し合いをしよう」「何かあったら言ってください」というように言語記述の利点を活かして生活しています。
言語処理をすることは人類の進化の源泉でもあります。言葉に残すことにより、記憶に頼らず正確に、大量の情報も、複雑な分岐がある情報も伝えることができます。
だからこそ、インターネットで、そしてこのnoteのようなブログ的サイトが爆発的に発展し、それが世の中に革命を起こしているわけです。
話はそれましたが、それだけ言語処理中心の人類ですが、障害や発達の過程で、言語表現が苦手な方もいるわけです。
その場合、話し合って解決する、起こった事象や不快に思う感覚を伝えて解決をする、ということが難しくなります。
「やりたくないから薄い反応しているわけではなくて、やること自体には特に抵抗はないけど、昨日、上司であるあなたが言ってたこととは逆の指示になっているので戸惑っている。でも、午前中に隣のAさんが正論を伝えた時に上司のあなたは理解を示さなかったのを見ているので、今そのことを伝えても逆ギレされるだろうな。。でも、言わずにやり始めて、あとから変更されるのも大変、、、」
という感覚を言語化して、適切に言いたいことを言い、かつ、円滑に仕事を進めるのはとても難しいことです。
書いてて思いましたが、このくらいのことは普通の若手社員あるあるかもしれません。
この時に感情コントロールが弱い人だと、言語での反論ではなく異なった形で表現されることがあります。
もしかしたらその感情を絵に書かせたら、書にしたら、音楽にしたら、とてもアツイ芸術になるかもしれません。あ、いえ、まじめにそう思います。芸術の名作はそのような強い衝動と芸術的才能と制作知識の掛け算だと思うのです。
なので、発達障害の方に対して言語的に圧倒して自己満足することは最善ではなくて、本人が何を感じたかを知ることは大事だということと、そのエネルギーは何かに変換すると良いのかなという考察でした。