おもしろい世界との付き合い方
世界の果ては随分前に探し終わった
この世界は真っ平ら、って思っていた時代は何をするにも未知に包まれていて、どこまでも広がり続ける世界を好奇心のままに生きていたのかもしれません。
今は世界の端どころか、地球の全貌もGoogleマップをズームアウトすれば簡単に知ることができてしまいます。
生きている世界の出来事はTwitterを見ればだいたいわかるし、様々な知識はネットからアクセスできたりしちゃいます。
人間の平均寿命はどんどん伸びていって100歳になっても働くかもしれない、不安ばかりがのしかかってくるこの閉塞した世界で、世界につまらなさを感じている人が実は少なくない数いるのではないでしょうか。
友達と過ごしている時間は楽しいひとときかもしれません。
でも、ふと1人に戻った瞬間、人生について思いを馳せるかもしれません。
なんのために生きているんだっけ?
退屈な世界だ...
そもそも私が以前よくそう思っていました。でもそれは生きていることを否定してしまいそうなので、果てのあるこの世界をワクワクに生きる考え方を考えました。
これはそのことについてのnoteです。
こんな人にオススメ
・一人でいると退屈に押しつぶされそうな人
世界は大きくならないけど、解像度は無限に上げられる
結論からいいますと、解像度をあげることです。それこそが果てのある世界を拡大する唯一の手段だと思います。
解像度ってなんのことだ?と思うので説明します。
本来の解像度とは観測対象がどこまで詳しく測定(描写)されているか、別の言い方をすれば、異なる対象がどこまで分離されているかを意味する。
(解像度-Wikipedia)
ウィキペディアにはこう書かれています。日常的には画像の粗さとして使われる事が多いでしょう。解像度が高ければ明瞭に、低ければジャギジャギに画像が見えます。
つまり、解像度が高い状態というのは、細部のわずかな違いもわかるようになる状態です。
例えば美術館に行くとしましょう。ある人は作品を見て、きれいだな、素敵だなって思いました。それは楽しいことだし、素晴らしいことです。きれいなものを観て楽しさを覚えたから、また来たいってなったらいいですが、きれいなものを観るって経験しかないなら入場料と釣り合わないなって思ったらつまらなくなります。
別のある人は作品を見て、こんなことを考えます。
この絵はどんな筆を使っているのだろう(力強さを表現するためだろうか、時代的にこの動物の毛が使いやすかったからだろうか)、どんな顔料の絵の具を使っているのだろう、この作品の額縁の装飾はこの作品をどう引き立てているのだろう、照明や作品の配置にどういう意図があるのだろう、なぜあそこの作品はあんなに人が集まるのだろう(作品自体が際立って特異だからだろうか、パンフレットでデカデカと目立っていたからだろうか)、この作品が描かれた時代にはどのような制約があったのだろう(宗教的にこの表現は禁止されていたのだろうか)、どうしてこの作品を見て心が打たれたのだろう、説明文のフォントはどうしてこれなんだろう...。
2人の人は同じ入場料を払って美術館で同じ作品を観ました。でも見えているものは少し違うと思います。同じ世界を体験しているのに、接している情報量が違うのです。解像度が違うと世界の大きさは変わらないのに、自分の中の世界はどんどん密度が大きくなるのです。
勉強はおもしろい、を理解するまで
自分は大学3年生くらいまで雰囲気で勉強していたような気がします。テストでいい点が取りたいからとか、友達が勉強しているからとか、漠然とした将来のためにやらなければいけないのかなと思っていたからといったように。
国語も数学も社会も理科も、全部独立した学問だと思っていました。でも、そういった知識は自分と関わるところで結び付いた時、一気におもしろくなると知りました。
料理というものは全て科学です。理科の授業で習ったことが意外なところで役にたったりします。例えば温泉卵、あれは卵の黄身のほうが白身より凝固する温度が低いため、その間くらいの温度で茹でることによって作ることできます。(沸騰したお湯でやると黄身に熱が伝わる前に白身の方が凝固してしまうので温泉卵にはならず、8分くらいで半熟卵になります)
そういうのを知って、料理するのが楽しくなりました。ただ漠然とレシピにそって作ってもいいですが、仕組みを知れるともっと楽しくなります。
ぼんやりと見ていた世界で目を凝らす
では、解像度を上げるためには何をするべきかというと、勉強と仮説の検証だと思います。知識が増えると見えているものの見え方が変わります。疑問を持つと勉強するべきもののコンパスになります。それとセットで仮説を立てるとそれまで得た知識の結びつける練習になりますし、何をすればいいか明確になります。
知識の有無と解像度がどう関係あるのかというと、人間は知っているものしか見えないと思っているからです。
子供とお買い物をしている時、子供がアンパンマンのグッズをすぐに見つけられるのは、その子にはアンパンマンと、親でしか世界が構成されていないからです。それ以外のものも見えてはいますが、その子にとっては背景なのです。道端の石ころも、派手なファッションブランドのアクセサリーもその子にとっては一緒なのです。違うのはアンパンマンだけなのです。
ただ、同時に子供は未知の世界に好奇心を張り巡らせて、世界に興味を持ちます。その行為こそ、解像度を上げる行為そのものです。そうやって世界は拡張していきます。水晶体を通過して結ばれた像は同じですが、捉え方は変わるのです。
知識をつけること、それを結びつけることによって、世界はもっとワクワクしていきます。ただ飲みやすい、美味いって判断していたワインも、訓練することによって香りから土壌や、時代、気候を感じて、生産者の情熱に胸を打つようになります。細部の差がわかるというのは、誰かの情熱に共感することでもあります。普通の人からしたらどうでもいい差に、この差が確かな差を産むと信じて、そこはかとない熱量を注ぐクリエイターに生きることの素晴らしさを学びます。
世界の解像度を一気に上げるための始めのステップはモノを作る側の人間になることです。
今の世の中は一生かけても消費できない量のコンテンツで溢れかえっています。だから生きていくのに消費者側でも何も困らないと思います。でも、料理でも、工作でも、エンタメでも、なんでもモノを作る側に足を踏み入れたら、その世界の深さにワクワクすると思います。
もちろん何かを生み出すってめっちゃ大変ですし、誰も評価してくれないかもしれません。でも、綺麗に見えるように形作られた表層のウラ側にある、無数の小さな工夫の積み重ねを知ると一生退屈しないと思います。
ただ一つ気をつけることがあるとすれば、自分はまだ何も知らないという気持ちを忘れてはいけないことです。自分は知っている、と思ってしまった時点でその世界の大きさは固定されてしまいます。知的謙遜こそ世界を掘り進めるドリルなのです。