![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/168255801/rectangle_large_type_2_be1372e4a565f3bb298b70fa1e7511db.png?width=1200)
モンゴルにいる、私のお母さんの話
これは日本語を学習して2年後に出た、在モンゴル日本大使館主催の第21回学校対抗日本語スピーチコンテストで優勝した際の原稿です。それまでは何を勉強しても平凡だった私ですが、日本語で書いた原稿を見てくれた先生が「あなたの文章は完璧です」と言ってくれました。もちろん、文法の間違いはあるし、言葉遣いも間違いが少なからずあった。しかし、先生のその一言が嬉しくて、嬉しくて、嬉しすぎて絶対に日本語を諦めないと決めました。伊藤先生へ。本当にありがとうございます。
私は自分だけではなく、母が歩むべきだった道を歩んでいます。私の母は小学校も卒業できませんでした。なぜ学校へ行けなくなったかというと、母は小学校4年生のときに耳が聞こえなくなってしまったからです。
ある日、母は書き取りの試験のとき、何も聞こえなくて、試験に落ちてしまいました。点数が一番悪かった母は先生に叱られ、ノートを破られ、クラスのみんなに「バーカ」と言われました。
それで、二度と学校へ行けなくなってしまったのです。それから、夢を諦め、遊牧民になりました。耳が開こえないことを比ずかしく思い、あまり人と話せず、自分の将来が心配で、誰もいない場所で一人で泣いていたそうです。
学校にも行かず、友達もいなかった母に結婚を申し込んだのは、学校で一番成績優秀な、母とは正反対の父でした。しかし、父の家族は優秀な息子が小学校も卒業しなかった、耳の聞こえない娘と結婚し、大学にも行かないと言ったことにショックを受け、結婚を許さず、母にひどい言葉をたくさん言ったそうです。けれども、母はそれに全部耐え、二人は結婚しました。そして一年後、長女となる私が生まれました。
出産すると、母の耳が聞こえるようになりました。
そのときの母の嬉しさを私は言葉にすることはできません。ところが、その嬉しさは長く続きませんでした。母の病気はなくなったわけではなく、私に移っていたのです。それを知った母は娘を決して自分のようにしないと考え、私に治療を受けさせるためにウランバートルに行くことにしました。治療を受けるのに高いお金が必要になりました。安い給料で、父と母が朝から晩まで必死に働いたお金で、やっと私は治療を受け、耳の病気が治りました。とても貧乏な生活でしたが、家族三人で健康であったのが何よりでした。
母は私にこう言いました。「私は諦めなければよかった。たとえ、耳が聞こえなくても、勉強すべきだった。つらいことから逃げるのではなく、戦うべきだった。だから、あなたは私と同じように諦めないで、優秀な法律家になるために頑張ってね。私が叶えられなかった夢をあなたが叶えてね。」と。親という人は、自分が至ることができなかった山の上に子供が至って欲しいと考えるのですね。
しかし、母に言いたいことが一つあります。それは「お母さんは諦めてなかったよ」ということです。母が父との結婚を反対していた家族の言葉に結婚を諦めていたら、今の私が存在しません。無職で、小学校の知識さえない、給料ももらえないその母こそが私に人生をくれました。母の心の優しさ、どんなつらいことに遭っても、どんなひどいことを言われても一度も文句を言わない、どんな仕事であっても、心をこめてやる、その能力はどんな高等教育を受けた人よりも優れていると思います。
私は自分の夢、母の叶えることができなかった分まで含め、母と父の誇りになる大人になりたいです。
それが私のこれから歩む道です。この道に、たとえつらいことがたくさんあっても、私は絶対に諦めません。
ご清聴ありがとうございました。