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或るアイドルヲタクからのレクイエム

去る2023年7月26日水曜日、午前7時半頃に母親から電話があった。

この日、祖父がこの世を去った。
5月に88歳を迎え、米寿での永眠だった。


この写真を撮影した今年2023年の元日、初日の出を見る直前の午前6時頃、祖父は救急車で搬送された。

今にして思えば、2023年は開幕当初から波乱だった。



生きることへの執着

祖父母と両親は、僕の実家である愛知県蒲郡市の家でずっと暮らしている。実家の隣り町に暮らす妹は、食事と犬の散歩をしにほぼ毎日帰っている。

僕だけが、そこらじゅうを転々として今は名古屋で一人で悠々と暮らしている。


元々心臓を悪くしていた祖父だったが、昨年2022年の前半、犬の散歩中に転んで怪我をして手術をするなどしていたが、そこを境に身体の調子が悪化していった。

医者の言うには、2022年の時点で年越しをすることはないだろうとのことだった。

しかしながらさすが戦前生まれというべきか、恐るべき生命力で祖父は生き抜いていた。
食事も、基本的には自分で食べていた。食欲は旺盛だった。身体が弱ってもなお、あれが食べたいこれが食べたいと言う。

僕は驚きを禁じ得なかった。
僕には無い、「生への執着」だった。


デイサービスにもお世話になったりはしたが、基本的にはずっと家に居て、祖母、母、妹が世話をしていた。
祖父は、自分が建てた自宅が本当に好きだったらしい。

そういったこともあって、いつ永眠してもおかしくない状況にも関わらず、僕は正月のあとは1~2ヶ月に1回程度ちらっと帰るぐらいで、あまり実家に姿を見せることはなかった。

祖父の世話を任せっきりにしているという負い目も少なからずあった。


7月14日、祖父が衰弱してきているとの連絡があった。
もともと2日後の16日、山中湖SPARK2023へ行く予定だったので、名古屋から車を東へ走らせ、途上で蒲郡の実家に寄った。

【SPARKに行った時のことがこちら】


祖父はすっかり衰弱し、言葉を発することはできず、ベッドの上で点滴を打つだけとなっていた。

しかし意識はあるようで、僕が来たことが分かったらしく、手に触れると目がうるうるとしている様子が伺えた。

これが、僕が見た最後の生前の祖父の姿だった。



我が家で初めての近親者の死

7月26日朝に母親から電話があった後、所用を済ませて僕は実家へ向かった。

昼頃に駅に着き、迎えの車に乗って自宅に帰ると、祖父は既に身罷っていた。


綺麗な死に顔だった。

祖母、母、そして妹。その3人に看取られ、大好きだった我が家でこの世を去った。
おそらく、今のこのご時世でかなり幸せな死に方だったと思う。

かかりつけ医のお医者さんも来てくれて、死亡診断書を書いてくれたようだ。
葬儀に関しては、父の妹(叔母)の家の前にセレモニーホールがあることもあり、その会社に既に相談をしていた。
僕は、ただ何もすることなく、死に顔を見つめるだけだった。


その後、続々と親戚が集まってきて、死に顔を拝んで行った。
祖父の姪、祖母の兄弟姉妹とその家族、祖父の実家の更に本家筋の親戚、子、孫、ひ孫…実に多くの人に見守られて眠っていた。


僕は、正直に言えば、祖父のことがあまり好きではなかった。

何より意見が合わない。いろんな物事に対して反目しあうことが多かった。
何よりキャラも合わない。僕は陰キャだし、祖父は超陽キャだ。


僕は祖父のことがあまり好きではなかったけど、皆は祖父のことが大好きだった。
祖父は、とことん色んな人に愛されていた。

来てくれた町内のお坊さんでさえ、犬を散歩している祖父の様子をよく見ていたと言っていた。
犬の散歩をすれば、必ず誰かかしらに声を掛けていた。だから皆が知っていた。

僕とは正反対の、愛される人間だった。

僕は僕の人間としての小ささを、まじまじと感じた。


お寺関係のこと、葬儀屋さんとのことが一通り終わると、父と一緒に死亡診断書を市役所に届けにいった。
父と車ででかけるなんて、ほとんどないことだった。

食事も用意してないので中華料理屋にテイクアウトの注文の電話をかけて、僕が取りに行って、家族や残っていた親戚でそれを食べた。


日中のうちに職場へ祖父が永眠したことを報告したが、翌日はどうしても休むことがシフト的にできず、折衷案として翌27日は2時間早く仕事を切り上げて通夜に参列し、28日の葬儀の日は忌引き休暇とすることにした。

思えば、今の職場でも、異動前の去年の職場でも、祖父がもう長くないから忌引き休暇が突然発生するかも…と散々上長や同僚に行っていたので、特に驚きはされなかった。

しかしながら、せめて繁忙期以外の時期で亡くなってほしかった…とはちょっと思っている…苦笑

この日は実家の車を借りて名古屋に戻り、翌日は仕事をして夕方蒲郡に戻り、通夜に参列してセレモニーホールで祖父と共に眠った。


28日の葬儀の日。
叔母(父の妹)、祖母の弟夫婦と4人で、祖父が好きだった喫茶店へモーニングを食べにいった。


祖父は海が好きだったという。
だから、海が見える席が好きでよく座っていたらしい。

確かに海にはよく行っていた気がするけど、そんなに好きだったとは知らなかった。

つまり、僕の海好きは祖父譲りだった。
瀬戸内に通う素地は最初からあったというわけだ。笑うしかない。


葬儀は、まあ葬儀だよねという感じだった。
あくまで儀式だから、粛々と進むのは当然のこと。


二十歳頃の祖父、くっそイケメンでびっくりした

今回家族葬ではなく一般葬とし、通夜・葬儀とも一般の参列者が2~30人程度と、すごく多くはないにしてもそれなりの数の人がいた。

そんな中で、僕も祖父の長男の長男、ということで、やはり「家」を気にするムラ文化の残る街だからこその気づかいみたいなのもあった。
ビジネス現場とも違う、血縁と地縁とが交差する場所は、僕が過去に嫌っていた場所だった。

今の僕は、そういう場所を否定しなくてもいいんじゃないか、と思えるようになっていた。


火葬場に到着し、火葬する直前の祖父の姿に、その場にいる誰しもが涙していた。
普段家族・親戚が涙する光景を見たことがほぼないので、僕自身涙目になりながらも、涙する家族や親戚を見ていると、自分が死んだときには誰かがここまで涙を流してくれるのだろうかという気持ちが生まれた。


人間の肉体を持った状態での祖父は、この時間を最後に居なくなった。

しばらくして、火葬されて骨だけとなった祖父の遺体と対面した。


そこからはセレモニーホールに戻って初七日の儀式があり、16時頃になって解散となった。
気づけば、傍では次の葬儀の準備が既に進んでいた。


人は生まれて、人は死んでいく。

そんな当たり前の循環を、僕は祖父の死と共に改めて実感することとなった。


祖父の死とヲタクモチベの復活

祖父の葬儀の2日後、僕はSTU48全国ツアーに参加するために神戸へ向かっていた。

不思議なことに、7月に入ってパタッと消えていたSTUへのモチベーションが、祖父の死をきっかけに復活していた。


死んでしまっては、何もできない。

生きているうちに、できることをしたい。

単純明快、極めて古典的な摂理に気づいただけだった。


僕は祖父が永眠した日から葬儀まで3日間、推しメンのことを思い出していた。

人の死に向き合う時に、ふと思い出すのは自分が想う人のことだ…と誰かが言っていた。
僕にとって、それは推しメンこと原田清花さんだった。それだけの話だった。


「推しは推せるときに推せ。」

単純な摂理ほど、気づきにくいこともある。

僕はどちらかというと、何かあるとすぐ気落ちして「もういいかな」とか思ってしまう、実に身勝手なタイプのヲタクだ。


僕のヲタクライフには波がある。

毎日毎日モチベーションを維持できるヲタクなんて、機械みたいに感情に乏しいやつにしかなれないと思っている。
ヲタクとは人間の営みであり、ぬか喜びと自己嫌悪の繰り返しなのだ。そのたびに何かに気づいていく。(どこかで聞いたことのあるセリフだな)

ヲタクなんてそんなもんでしょ。


祖父の死は、僕にとってまたひとつの気づきとなった。


(了)

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