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少年期 ②

 面と向かって話すと、信じてもらえないどころか以降の信用を失いかねないな、と感じて公言してこなかった体験談を、この際残してしまおうと考え、書くことにしました。少年期のお話です。

記憶の形

 ここまで書いてきた思い出たちを読んだ方は、そんな昔のこと覚えてるもんかよと思うかも知れません。少なくとも私の母親は信じませんし、「記憶が克明過ぎて怖い」と素直に感想をくれる友人もいます。
 大学で心理学の講義中に「記憶するにしても様々な形があり、それは人によっても違うし、同じ人でも対象によって記憶の形が変わることがあるので一概に言えない」という旨の話があり、自分の記憶の形を改めて確認するようになりました。
 自分なりに記録を取り、分析した結果、私は映像記憶を行う人間であるようです。また、写真のようにシーンを切り取るシャッターアイのようなものではなく、6秒程度を単位とした短編動画の集合体であることまで分かっています。教育心理・発達心理の書籍の一部や、知人内の感覚を言語化している方々に聞いても、ほとんど全員が複数の記憶の形を有していたので、サンプル数は足りませんが稀な例なのかも知れないと思っています。
 具体的には、暗記ができません。単語や動作と紐付けて脳内に記録することが不可能なのです。物を覚える方法は、心身の調子の良いタイミングであることを条件に、感情の揺れを伴う10秒程度の映像を視聴することです。私の記憶法はこれのみなので、後はいかに心身を整えるか、いかに己の感情を揺らすかの2点を技術として磨くのみです。
 例えば、小学2年生で学習する掛け算ですが、その際に九九の暗記をさせられるのが通例です。私は、成人した今でも、頭の中で蜜柑なり団子なり饅頭なりを並べます。なぜ食べ物かと言えば、インプット時に「美味しそう!」と心が揺れたからです。ですので九九はメチャクチャ遅いです。ランダムに全部こなすのに5分ほどかかります。複雑な計算になれば、それと同時並行に別の処理を挟むので常人と同じかやや速いくらいにこなせますが、根底の基本処理が致命的に遅いのです。
 そんなこんなで、私の記憶は全て動画でできています。
 それに従ってか、思考する際も動画形式で行います。視覚的オブジェクトが変形ないし運動を行い、その光景が推移することで思考が形作られ、表現する際はその完成した絵を言語で描写することになります。

 そんな性質を持つ人なので、幼少期の記憶も動画として脳内に保持しているのです。

視線に乗って

 10歳くらいからでしょうか。特に何かのきっかけがあったわけではないので、恐らくメタ認知が可能になった頃合いゆえの気付きだと思いますが、視線とそれに乗った感情を感知するようになりました。既に自分へ向けられる好意に不快感を覚えつつあったので、感知する感情は主に負のものでした。
 視線とそれに乗った感情は、人間のものもそれ以外のものも感じ取ることができました。それを感じ取れないときもよくありましたが、対象が何も考えていなかったのか、私の感度が弱かったのか、私の知る感情でなかったために受け取れなかったのか、はたまた別の要因か。今となっては分かりませんが、視線を向けられて何かしらを感じる割合は8割ほどでした。

 クラスメイト達の視線は、それそのものに加え頭の中も目まぐるしく変化するため、ほとんどの場合は何かあるのは分かるものの上手く汲めませんでした。
 対してよく分かったのは動物の視線でした。自分より大きな動物(人間)の接近に恐怖する視線。縄張りへの不躾な侵入に怒る視線。獲物が射程内に入るのを待つ歓喜と殺意の混じった視線。接近を許すものの危害を加えるならばこちらにも考えがあるぞ、という警戒の視線。そういったモノが、歩く草むらのそこかしこから飛んできて刺さるのです。特に哺乳類のものはよく分かりました。クソ田舎とは言え定期的に人の通る場所なので、そこまで降りてくる哺乳類は山を追われたモノ――狩りが、気配遮断が下手なモノが大半だったからです。これがどこにでもいる昆虫になると、本当に気配遮断の巧拙が様々でした。ムカデだけは何故かどいつもこいつも敵意殺意が剥き出しで、人間相手でも「獲物がいたぜ!」と襲い掛かってくるので嫌でした。夜中に殺気と足音で目が覚めるとか年に1回は発生するイベントで、部屋を移して油断していた高校1年のときは不覚を取り、左耳を持って行かれたこともありました。

 12歳くらいになると、スポーツの得意な子達は戦術や戦略を練ってグランドに出るようになっていきます。そうなると、スポーツの最中、視線で誰が何を狙っているのかが見えるようになりました。
 私はそこまで運動が得意ではないのですが、相手の狙いがだいたい分かるおかげで普通の選手より1~2歩早くスタートを切ることができました。負けず嫌いですので、そうやって先読みして罠を張って体勢を整えるという、嫌らしい戦術で拮抗するようになったのですね。

 視線に乗る感情が大きければ大きいほど、遠くからでも感知できました。また、感情を発する存在の少ない場所の方がクリアに感知できます。この辺りは声と同様ですね。大きな声の方が聞き取りやすく、他の雑音が少ないほど聞き取りやすい。そんな感じです。また、先にも述べましたが後ろ暗い感情ほど鋭敏に感知します。
 12歳の秋、家で洗濯物を取り込み、畳んでいると、裏山の方から視線を感じました。家屋の壁で隔たっているので直接視線は通りませんでしたが、何かが憂いと希望の混ざったような視線を私に向けている気がして家を出ました。視線の方へ――道なりなので真っすぐとはいきませんでしたが――山へ分け入ると、先刻散歩に出た祖母が座り込んでいました。
「来てくれたのかい?」
「何か、そんな気がして。立てなそう?」
「悪いねぇ」
そんなやり取りをして、祖母を背負い上げました。結果として祖母は転倒の際に大腿骨を折っており、以降立つことは叶いませんでしたが、山中で日が暮れる前に連れ帰ることができたために凍えずに済んだのでした。
 17歳の春、休日に友人らと遊びに行こうと自転車を漕いでいました。待ち合わせ場所まで向かう最中のことです。後ろからバイクのエンジン音と共に、かつて大学芋を狙う野犬が放っていた殺気にも似た、けれども命のやり取りをするほどでもない温い、ドロリと粘っこい、不快な視線が近付いてきました。初めは音の感じで20mほど離れていたのですが、それが徐々に距離を詰め、接触するかと思ったところでエンジンを蒸かしました。音より先に殺気のような愉悦のような感情が強まり、前かごの荷物に注がれたのを感じ、私は車道側の手をハンドルから離しました。ヌッと目の前に伸びたバイカーの腕を絡めるように掴み、逆の手で目いっぱいブレーキを握りしめると、私と私の自転車、そしてバイカーはその場で止まり、加速しようとしていたバイクだけが力加減の強過ぎた達磨落としみたいにスコーン!と転がっていきました。人の少ない田舎の道だから怪我人も出ませんでしたが、次の機会にはその辺まで考慮しなければなりませんね。ともかく、そうして騒ぎを聞きつけた近くの店のおじさんと一緒に、何が起きたのか分かっていない様子のひったくり(未遂)犯を警察に連れて行ったのでした。なお待ち合わせには遅刻しました。
 26歳の秋。茂みに身を潜めながら冬ごもり用の食糧を探すタヌキやハクビシンとよく目が合うようになっていた日々、いつものように深夜27時頃、自転車で帰宅していたときのことです。野生動物も少ない東京の住宅地、住民のほとんどが寝静まった時間帯であったため、200mほど離れていましたが、べったりと貼り付くような懐疑の視線が背中にへばり付きました。過去のひったくりの件があったので警戒して後ろを向くと巡回中のパトカーが1台。
(この時間にいる人間は、そら疑うわな)
と納得し、前を向き直り家路を急いだのですが、その様子を見ていたパトカーの警官が車を寄せて停車させてきます。
「今キョロキョロしてたよね?何を見てたの?」
「視線を感じたので警戒してその方向を見ただけですが。パトカーだったのでひったくりとかじゃなさそうだと安心し、前を向き直った次第です」
「嘘でしょ。ちょっと手荷物見せてくれる?」
「手荷物検査はけっこうですが嘘ではないので発言の撤回を要求したいです。よろしいですか?」
「は?」
「何か?」
深夜帰宅勢なので地域の交番勤務の警察官とはほぼ顔見知りでしたが、初対面の相手だったので私も警戒していました。結果としてパトカー警官が通報される事態に発展してしまったのですが、そこは本筋ではないので割愛。この件で、物語でよく見る『何かに見られているような気がする』という感覚を、あまり多くの人に共感されない表現なのかなと認識するようになったのでした。

 視線を感知して最も役に立ったのは教育職の授業中です。担当する生徒全員の視線の動きと大まかな感情・感覚が分かったので、次にやることの指示出しのタイミングや解説がどれくらい芯に響いているかの確認の目安になりました。あの職場では、1年以上勤務して語り合えるようになった同僚は皆、漏れなく、同じように『直接見ていなくても生徒の訴える視線や進捗状況がそれなり以上に分かる』とのことだったので、きっとあの場所が異常だったのだろうな、と近頃は思うのです。

 また、ごく稀にですが、そこに何も見えないのに『そこから視線を感じる』ことがあります。不定期に突然それを感じることもあれば、その場所へ行けば必ず感じるという場所もありました。
 今の住まいの近所に必ず視線を感じる場所の1つがあるのでほぼ毎日味わっているのですが、そこを除くと年に1度遭遇するかどうか、といったくらいの頻度です。何なんでしょうね?霊感とかは無い方なので、視るとか触れるとか祓うとかはできないのです。いざという時は寺生まれの人を呼ばねばなりませんね。
 ただ、その視線からは特に込められた感情を感じないのです。もし視線の主がイメージ通りの地縛霊とかそういった類なのだとしたら、もっとドロドロした怨念のようなものを道行く人に投げるものだと思っているのですが、そんな様子もありません。まあ、瞬間湯沸かし器みたいな人が現実にいるのも事実なので、いつ怒りだの恨みだのを投げつけられるか分からないので、心構えをしておくに越したことはないのですが。

 この話のジャンルはオカルトなんですかね?それこそ目の良い人・悪い人みたいに、感覚の敏感さで個人差の範疇だとつい最近まで思っていたのですが、友人にドン引かれてしまいこの感覚が何なのか分からなくなったのでした。

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