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善か悪か 正しいのか誤りなのか

うちのファミリーの1番下がいま、14歳。相良倫子さんと同じかな。6月23日のあの詩の朗読、聞きましたか。14歳。すごいね。

さて。うちの14歳は、外からの情報に対して、とても、純粋。
多くを素直に自分の中に取り入れる。例えばファミリーの大人のいう事は、ほぼほぼそのまま信じる。「へぇ、そうなんだ」「本当にそう思う?」「え?!」 大人達は子どもの思考を願って、揺さぶる。

学校の先生方も「得た情報は、本当に正しいのか?それが正義なのか?」と揺さぶってくるようだ。時には最終的には「悪」であると判断して欲しい事を「正義」だとして提示する。子ども達は本を開き、調べる。歴史、時代背景、他国との関係性、国民性、今なら?自分たちなら?

最終的に「悪」と決断する時も、「時代背景を考えたら、善になってしまう事だと思う。でも今の時代で見るなら悪だと思う。だから、同じ事をもう起こしちゃダメってことだ」とか「一般市民にとっては、一見善だけれども、これは国家が国民に言うことを聞かせようと、反抗しないできない思考と価値観にするためにやっていたことだから、実は悪と言える」とか、かなり、しっかりと考える事ができたり。

いつだったか、歴史学者が、まだ「正しかったのか誤りだったのか」を結論づけていない歴史的事実をもとに、子ども達がディベートをする授業を参観した。かなり、エキサイティングだった。

専門家がひとつの結論に達していない問題を、時代背景から歴史から、宗教的背景から、いろいろな側面から調べ、自分たちなりの結論を見つけ出す子ども達。(ディベートなので、最初に「正」と「誤」に分かれて学習を進めている。なので、「正」チームが「誤」という結論にたどり着きそうになって、「だめじゃん!これを突き崩す証拠みつけないと!」ってなっていたりして、そうい意味でも、結構面白い)

途中、結論にたどり着きかける手前で、先生方から「でもな、これ、本当にそうでいいのか?」揺さぶりが入る。子ども達は・・・去年は軽く「あ、そうか・・・」と先生の揺さぶりに揺れていたけれども、今年はかなり強くなっていて「でも、こういう例とこういう例があって、これを通してみると、やっぱりこうだと思います」と、説明することができていたり。

学者でも結論づけていない事なので、子ども達がたどり着く「結論」が正しいのかどうかは、実は、解らないことで、その結論の「正誤」が問題ではなく。自分たちの目耳頭心をフル回転させて、理論的に結論をみつけていく作業、これが、とても大事なのだと思う。

この方法は、他の教科でも使われていて、子ども達は「先生」の言うことをただ聞いて、丸呑みして「正しい」と知るのではなく、先生が提示する課題を通して、自分たちの力で「正しい」ことを見つけていく。

理科の実験みたいだなーと思ったことがある。

さて。

いま、TVをつけてニュースを見ると、嘘に嘘を重ねていく大人の姿が堂々と流れている。それをみて「そうなんだ」と、黙って見ているのではなく。
もたらされるニュースを、日々の情報を、子ども達なりに整理したり消化したりしながら、自分の意見をもって話をする様子を見ていて。

子ども達の未来は、まんざらでも無い。と思えたりしている。


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