ぬいぐるみとしゃべらない人も優しい
ノルウェーに暮らして11か月、もうあと1週間で帰国です。結構日本が恋しい気持ちとここにいたい気持ちが半分半分で複雑です。
留学中、初ヨーロッパということでたくさん他の国に旅行をした。もう貯金は底を尽きた。ただどんなに仲がいい人と旅をしていたとしても何日も行動を共にしていたらやっぱり金銭感覚、時間の使い方、体力、衛生観念、興味などいろんな部分でズレが生じてくる。しかしそのズレがストレスになることは少なく、むしろその人の新たな一面が見れたような気がして面白かった。これは違う価値観に対してどう向き合うかという点で結構示唆的なのではないかと思う。
大前粟生の『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を偶然大学図書館で発見した。手に取ってみた。要は人に優しくするとはどういうことかという話である。
(以下ネタバレを含む)
どうも主人公の七森という人間が受け付けない。映画のほうが内面に関する描写がそこまで細かくなかったり愛嬌のある雰囲気だったりする分まだマシに思えたが、とにかく何が嫌かというと他人の意識について人一倍敏感で傷つきやすいくせに他人には勝手に行動を期待して裏切られると悲しむという、そういう繊細と言えば聞こえの良い気難しさである。
ぬいサーにいるような人間はいままで誰かに無理矢理価値観にあてはめられて悲しい思いをしたことがあるから他人にはそういう思いをさせないようにしようと思っている。ここまでは良いとして、その方法として彼らは価値観を他人にあてはめることの暴力性について再考するのではなく、価値観以前の事実について話すこと自体をやめた。人を傷つけないためにコミュニケーションを削除することを選んだぬいサーの方針は潔いと言えば潔いが、他人と話しても無駄だという諦念でもある。現実の話ナシ縛りでどれだけ人と親しくなれるのかについては疑問であるが、とにかくこの世界ではできるだけ現実を話題にしないようにすることが「やさしさ」だとされている。
彼らは「やさしい」人間なので、例えば兼サーしている白城に「白城、嫌なものになっちゃてるよ」とか言ったり、せっかく旧友と飲んでいるのにちょっと気に入らないことがあると態度に出して気を使わせたりとかしても構わない。自分が「やさしい」ことを自己と同一視しているだけで自分の行動は全て自動的に「やさしい」ものになる。突然家に押しかけてしゃべり倒して麦戸をビビらせたりしても、七森は「やさしい」からよいのである。
いや、どこがやさしいねん。白城がどんな考えでイベサーに行ってるのか、中学の友達が何を経てそういう言動になったのか、本心なのか、そういうコミュニケーションしか知らないのか。それぞれの人間がどういう地獄を抱えて気丈に振る舞っているのかを一切想像しないで自分は社会のお客様だと思い込んでいる、幸せな人間である。現実を嫌悪しているため、他人の事情について考える想像力が著しく衰えており、そのため逆に杓子定規な道徳規範を当てはめることしかできない。
「正論は優しくない」というが、優しくない「正論」は道徳のことであって、倫理ではない。七森は白城にジェンダー格差を是正するために声を上げろと言う。それは正しいが、果たして彼はそれが白城にとって正しいのかについて想像したことはあるのだろうか。彼が興味があるのは道徳規範だけであって彼女の人生という現実を考慮した倫理ではない。白城はそういう無邪気な正しさのことはもちろん知っていながらもそれだけでは生きていけないことを知っている。倫理は社会に近い分、時間がかかる。
これは世の中にスレるスレてないっていう話しではなく、七森麦戸の理想主義/白城の現実主義の対比構造である。「やさしい」とされている前者は理想主義がために逸脱を許さないという暴力性と意識的な無関心を内包している点で危うい。道徳による価値観を振り回すのは、ひょっとすれば例えば戦時中のナショナリズムと同じだ。ロマラブという価値観に乗れなかった七森が他者に興味を持つことを避けた結果、翻って価値観に基づいて説教をするのはなかなかの皮肉である。道徳=理想にそぐわないものを受け入れるための自分に対する優しさがなくて、それは裏を返せば他人の道徳からの逸脱も許さないということだ。
人と人が影響し合うときには100%人を傷つけないようにすることなんて不可能である。自分も傷つくし相手も傷つくという前提を共有して人と関わる他なく、それはコミュニケーションの責任であるのに、それにも関わらず彼らは無関心を「やさしさ」と言い換えてその義務から逃れようとしている。
そうではなくもっとあくまで現実に即して色々考えて肯定と否定、あるいはその留保を使い分けるために頭を使うことが本当の優しさであり、倫理ではないのか?それをすっとばして現実について語るのを避けて避けて全部無条件に肯定するのが「やさしさ」だと思ってるなら、それはただの思考停止である。これは無邪気な正義感と地続きであって、よっぽど有害な正論に接続しやすい。
だから、ぬいぐるみとしゃべらない人も優しいぜって言いたい。怠惰や無関心を「やさしさ」と呼ばせてはいけない。現実の話をすることが「優しくない正論」だとされがちだが、全くもって間違っている。大切な人に現実に目を向けさせることも時には優しさである。
無垢な道徳をもって現実から目を背け続けていた七森であったが、麦戸との対話の中で理想のみで生きていくことは不可能であり自身も社会の当事者であるということに気づき、思いをぬいぐるみではなく人間に話すことの大切さを知る。しかし、七森は人間との対話の重要性に気づいたはいいものの今度は白城をその対話によって救ってあげようとでも言わんばかりの傲慢さを露呈し始める。
白城のことを「安心のために大きいものに従ってしまう」とか偉そうに評することが出来る強かな人間が一体なぜ自分のことを「やさしい」と言ってしまえるのか、疑問は尽きない。七森が知っていることは白城がイベサーに不本意ながら所属し続けている、というただそのことだけで、そこには善も悪もなく、事実のみがあるのに、勝手に自分の価値観でそれが悪だと決めつけて、最後まで「僕や麦戸ちゃんと話すことで白城が変わっていったら」とか思っている。七森は他人の持っている規範を尊重しないくせに結局自分の価値観を人に押し付けることはやめられないのである。「みんなちがって、みんないい」ではないが、七森は全員の価値観が違うという現実を認められない。
価値観なんか全員違うのは当たり前で、彼が出来ることはその違いを理解しようとすることだけである。そこで役立つのが人間同士の対話である。他人を自分の価値観にそぐうように変えるためではない。
嫌いやわーと思いながらこの小説を読んでいたが、最後の2行で納得した。ぜひとも読んでみてください。映画版も最後いい回収です。
過去の記事でなかなか良いことを書いてて自分が嬉しい。価値観は水物で、むしろ価値観が絶対視されるような世の中のほうが危ない。今是とされていることだって何十年経ったらまた真逆のことが正しいとされているかもしれないし、全く違う角度から変わっているかもしれない。小5の男の担任が14年ぐらい前に育休取っていたことが特殊だと話のタネになっていたのに、今ではそんなことは言えない。あんなにマスクをつけないと異端扱いだったのに、今ではそんなこと忘れてしまった。数十年どころではない。数年単位で世の中の当たり前なんて変わるのだ。
正しい正しくないとかいうのはそのときの価値観によるし、それもどう変化してゆくかなんて全く予測できないのだから、価値観=道徳とかは相手にしてはいけない。しかし、価値観から逃れることは出来ない。価値観は混沌としたこの世界を切り取ってものを見るための手段であるからだ。それは人間や社会を理解する助けになるが、一歩使い方を間違えれば暴力装置にもなりうる。大事なことは価値観が変わるということを含めた「現実」から目を離さないことと、変わりゆく価値観のなかでベストを尽くし続けることである。
やっぱり本当のことを言えない社会・関係性は不健康だと思う。本当のことを言っただけなのに、まだ価値判断を下す前なのに、いいとか悪いとか決める前なのに、相手のことも信用してないし自分のことも信用していないから「正論」が必ずしも悪いものになる。
いま4人でシェアするフラットに住んでいる。文化圏の違う人間と生活をしているとどうしても生活様式(特に衛生観念)で合わない場面が出てくる。それでも変にカリカリすることなく違いを違いとして、事実として受け入れてリスペクトすることが大事である。むしろ外国人として生活している以上私の行動のなにかもノルウェーの常識から外れているところがあるはずである。少なくとも私はレジ回り以外は英語で生活をしているのに、ここで差別を受けたことはない。寛容な人たちである。この違いを違いとして受け入れてお互いが過ごしやすくすることは今後移民が増える日本社会で結構必要な視座だと思う。
本当のことを言って何が悪いのだろうか。旅行で合わない価値観が露呈してもそれを一歩包括して前に進めた経験は小さいながらもとても良い視点をもたらしてくれた。